「共」に「生」きる。 in 阿蘇

菊池恵楓園の関さんから自治会機関誌『菊池野5月号』をおくっていただきました。昨年11月27日、宮地小での講演会のことがくわしく書いてあります。関さん、ほんとうにありがとうございました。

阿蘇市立宮地小学校にて 
 
       関  敬
 
昨年、秋が深まるころ阿蘇市立宮地小学校におじゃました。
実は、道を隔てた学校の向かいに「(障害)児・者と共に生きる作業所『夢屋』」があって、代表の宮本さんから、私がハンセン病療養所菊池恵楓園に在籍しているのを承知で、宮地小学校四年生クラス五十八名の児童に啓蒙の意味をふくめて話してくれないかと、相談があったのが五月のことであった。
らい予防法が廃止になって十年、関係各省庁はもちろん、熊本県をはじめマスコミ等の啓蒙・啓発、当自治会役員諸氏が各地に招聘されての講演、見学者への案内・説明等の活動で近年は、私どもへの社会の理解が浸透しているのではと思っている。
このことを思うと、自治会に深く携わったことも、人前で公に話した経験も無い私には何をどう話せばいいのか皆目わからない。
私自身も表立って顔を出せない事情があって今もって偽名であるなど打ち明け-考えさして-と話を濁していた。
夏が来て秋になり、宮本さんから確認の電話がくるまで忘れていた。というより、半年にもなるし、学校の、あるいは多忙な宮本さんの事情で中止になったと勝手に安堵していたのだった。改めて電話を受けて承諾したのには、姉からの手紙で明かりを感じ、自分を
試してみたかったからであった。
一昨年暮れに義兄が亡くなってかな、寂しさをまぎらすように面会に来てくれていた姉が、ニカ月ほど顔を見せなかったので、八月初旬、会いたくなって面会に来てと電話をしたところ、姉から「昔は面会という言葉を使った。今は違う自由を得たあんたが自ら面会
という言葉を使うのは納得がいかない。言葉じりをとるようだが、面会と言う言葉は絶対に使わないで、胸を張って強く生きて……。『予防法』が廃止になったのだから、誰にも遠慮することはない。強く生きることだ」と八十九歳になる姉から姉弟(きょうだい)な
らではの、厳しいが、優しい励ましの手紙を貰っていた。
姉に言われるまでもなく、予防法廃止後、国賠訴訟も勝訴し、私ども療養所を取り巻く環境が変化しているのを感じてはいても、社会の日を極度に恐れた当時の身内の身の上、入所当日の悪夢のような巡視長の恫喝。今も心身のどこかに残っている、見えない、言え
ない負い目を消しようもない日々の暮らしである。したがって外部に向かって口を開くにしても、ときには遠慮勝ちに物言いをしていたのだが、三十数年振りに会った姉が、私が思っている以上に現状を理解しているのを知って、改めて古い意識は捨てねばと自戒して
いる。拭い去る日はいつの日かわからないのだが・・・。
姉の言に背中を押され、官本さんの好意に甘え、私が入所する前後のことだったら語を致しますと返事をし、その夜から六十年余の過去を振り返り、下書きを箇条書きすることにしたのだが、一つひとつが昨日のできごとのように鮮明に思い出され切なかった。
下書きは原稿用紙十六枚になったが、文語体を口語体に直さなければ児童に分かりにくいと思い、文法を知らない私は、宮本さん(元小学校の先生)に下書きを渡し口語体に直していただいたのが十月末日であった。担任の先生を同道して来訪いただき、スケジュールを知らせていただいた。
送迎は宮本さんの好意を受けることにした。
日時は十一月二十七日。十時二十分学校到着、校長先生に挨拶して、十時四十分から十一時三十分まで話し、十分ほど休憩。十二時までが児童との質問・応答時間となっていた。
話の中で生徒たちの質問について相談があったが、私のことだったらどんなことでも正直に答えるということで、質問は生徒の自主にしていただいた。
四百字詰めの原稿用紙一枚を読む時間は一分あまりと問いていたので、単純計算して十六分である。したがって、下書きを見ながら間をおいて、聞き取りやすいように話せば三十分あまりで質問時間を入れても時間内に済むはずであったが、当日は自分ではわからな
いが、外見は年の功で平常を装っていても内心は上がっていたのだろう、時間をはずしてしまい迷惑をかけたと思っている。
内容は、自己紹介で「関敬」は偽名、あるいはペンネームであること、十六才で入所したこと。療養所の所在地は合志市、農業公園のとなりで面積はこの学校の十九倍の広さ。員数が五百名弱、戦時中アメリカで出来たプロミンという薬で病気が治るようになったこ
と。それまではらい予防法という国の法律があって、病気になると無理やり親兄弟から離されて一人療養所に入らなければならないこと。患者にとって療養所は入口はあっても出口はないといわれていたが、病気が治る今は退院することができること。
昭和十八年春、私が病気になり、大学病院皮膚科に診察に行き消毒されたこと。病気のことを父母が心配していたこと。心配のあまり弟がのむ母乳が出なくなったこと。盆が来て仏間で父は、先生から間いたであろう病気のことを説明し、療養所に行ってくれと頭を
下げられて入所したこと。
今日は夢屋の宮本さんから頼まれてきたが、何を話せばいいのか迷ったこと、それで忘れることができない私の入所当時のこと、今の療養所のこと、そして最後に、昔にあった大切なことを話しますとつづけた。
『私どもには自治会があります。大正十五年にでき たのですが、これは皆が心を合わせ、お互いを助け て生活しようと作ったのです。病気をすると働けない。お金を持っている人と持たない人がいて、お金のない人を助けようと豚や鶏を飼い、売店をつくり
元気な者が作業した給料から少しずつ自治会に納め、戦後数年前まで体が不自由な人、児童に毎月少額だが互幼童を分配しました。そのころは何をするにも子供と体の不自由な人が優先で、時代がかわり互助精神は薄らいでいます。
今一つ、昭和二十九年に熊本市黒髪小学校校区に竜田寮という「親が療養所にいて育てることができない」児童施設があって、そこの学童の入学が拒否された差別事件がありました。義務教育は誰でも受ける権利ですが、時のPTA会長は医者であり、県会議員でしたが、こんな人でも弱い人を差別しました。施設の児童は大学の先生の家から登校したと聞きました。
皆さんにお願いがあります。何か正しいか、自分の目と耳で確かめてほしいのです。正しいとされていることも違っていることもあると思います。「らい予防法」がそうだったのですから、「この人はこうだと差別しないで友達と仲良くし’て下さい」』と。
概略、上記のことを話したが、三週間程過ぎて担任の先生から礼状に添えて、児童五十八名の感想文が送られてきた。
私の前半の話は小学四年生には理解しづらいと危惧していたが、私語もなく真剣に問いてくれたのがありかたく、うれしい思いをさせて貰った。
礼状には語を受けて、学級通信もいくつか出したこと。後半の質問はクラスで用意したのではなく、子供たちがどんな反応をするか心配だったが、たくさんの質問をする子供を見て、語が子供たちの心に届いているのを感じ、先生自身も改めて「人間としての誇り」
とか「生き方」を考えさせられた、とあった。
質問に答えて、好きな食べ物は焼肉、くだものは時季的に柿。趣味はワープロ、ゲートボーール、盆栽、特にカラオケ、子供のころはボーイソプラノで歌は上手だよと自慢したら教室が明るくなった。   
礼状にはきつい語ばかりでなく、いろんなことが聞けたことがよかったし、心和むひとときとなったことがわかりました、とあった。
生徒の感想文は、A5の用紙に横書きであったが、克明に表裏に書いた人、枠いっぱいに書いた人など、個性と感性が感じられ心地よく読んだ。
要約し記すとー。
○間をとって話してくれるので、分かりやすくメモがとれた。  
○父と別れ戻ったとき強く注意されたことへの同情。
○知人もいない所に十六才で一人で入ることはすごい。
○人口はあっても出口がない、と分かって入ったのですから、勇気 がいること。
○友達や人の悪口はぜったいに言ってはいけない。
○差別は絶対にしてはいけない。
○本名が言えないのがきついと思う。       
〇自治会ができて不自由な人や子供たちにお金を配ったのがすごくいいなあ、みんなやさしいなあと思った。
○小さな子供たちは家族とはなれてとてもつらかったと思う。
○なにが正しいか自分の目で見て、耳で聞いてたしかめたい。
○いろいろ教えてくれてありがとう。
自分の思いを素直に文章にしてくれたクラス全員の皆さんと、お世話いただいた校長先生、担任の先生方に心よりお礼申し上げたい。

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