「共」に「生」きる。 in 阿蘇

映画『サイコ』を見てみて

NHK・BSでは、今、アルフレッド・ヒッチコックの特集があっています。昨夜は『サイコ』があっていました。いわずもがな、ヒッチコックの代表作であり、今もってサスペンス、スリラー、そしてホラーにまで通底する人間の心理描写を含めたストーリー、構成、演出、音楽、完成度、すべてにおいて越えられぬ金字塔を打ち立てた作品ではないでしょうか。まあ、「人」は恐ろしい、そのことを単なるノーマン・ベイツという異常性をもった多重人格者の犯罪にとどめることなく、たとえばジャネット・リー演じた金を持ち逃げする秘書にしろ、そのちょっとした動作に疑いを入れるサングラスのハイウェイパトロールの警察官にしろ、登場人物すべてにひとたび「均衡」が壊れだしたときの人と人との関係の危うさ、そして日常は個々人に潜みながらも、あるときある必然さえあればまるで理知的とも思えるように計算された上で顔をのぞかせだすグロテスクな別人格の出現と恐怖を滲ませます。そのような伏線があるからこそ、モーテルでノーマンがマリオンに語る「人は生まれながらに罠にかかり、一生逃げ出すことはできない」という言葉がリアリティーをもって響いてくるのではないでしょうか。

さて、私は今回この『サイコ』を見ながら、なぜかもう一つの映画を思い浮かべていました。それは同じく1960年、フランス・イタリアの合作で製作されたルネ・クレマン監督、アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』です。こちらの方はアラン・ドロン演じる貧乏な青年トムが普段から彼をこき使い傍若無人な態度をとる金持ちの放蕩息子フィリップを殺害し、その後、フィリップになりきろうとサインの筆跡の癖まで習得し、彼の財産だけでなく恋人まで自分のものにしようとする話です。もちろん最後はあの有名なシーン、まさしく太陽が燦々と降り注ぐ浜辺で日光浴をしているとき、海へ投げ捨てたはずのフィリップの死体が錨とともに巻きついて引き上げられ、彼女の絶叫とともに結末を迎えるのですが、つまりこちらは、他人に必死になろう、なろうと努力し、それでも破綻してしまう話で、他者になりたくなくても勝手に憑依し擦り替わってしまう『サイコ』とは対極をなすものではないか、とそんなことをふと考えたのです。

「異常」と「正常」の問題であり「病理」の違いだ、と片付けてしまうこともできるでしょうが、じゃあ、果たして一体どちらが異常で、どちらが正常なのか。考えようによっては、友人を殺し、本気で他人になりかわろうとするトムの方が、閉鎖的で孤独な母親との二人暮らしの中、母親を他の男に、あるいは息子を他の女にとられるのではと追い詰められ、殺害や人格転換を繰り返すフィリップより異常かもしれません。

『サイコ』の終わり近い場面で、心理学者が「最後には強い人格がのっとり勝つことになる」と力説しますが、「ジキル博士とハイド氏」も、最終的には薬の力でハイド氏の人格を追い出せなくなり、ジキルともども自壊します。しかしハイド氏が勝ったのではなく、ハイド氏になりたいというジキル博士の無意識の願望が上回ったとすれば、勝者は最初の基点となったジキル博士であったともとれます。

フロイトが「無意識」の概念化ともども、意識への無意識の「抑圧機能」を提唱し一世紀が過ぎましたが、そこから出発した集団的無意識やさらに奥底の深層心理、果てはメタ認識に至るまで、最近では感覚や神経器官の未発達な単細胞生物(粘菌)にも知能があるのではという発見がされ、日本人がイグ・ノーベル賞を受賞しています。底の知れぬ人間を初めとする生物の恐ろしさと不思議……。今日はまた『鳥』があるので楽しみにしているところです。

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