「共」に「生」きる。 in 阿蘇

「累犯障害者」山本譲司著(新潮文庫)を読んで。

著者は、現在首相である管直人氏の秘書を務め、その後、衆議院議員に当選しましたが、政策秘書の給与を事務所運営費に流用していたことが発覚し、事実を認め即辞任した人です。そして一審の実刑判決を上級審で争うことなく(つまり執行猶予の可能性を潔く捨て)、一年二カ月の服役で罪を償うという道を選択したのです。

私は、名前が演歌歌手と同姓同名であることもあり、興味本位というか、またまた困った政治家がいるもんだなというくらいで、この流用事件を見ていました。しかし、その後彼が、テレビなどで障がい者の服役後の追跡調査や刑務所内の障がい者に対する待遇問題がドキュメンタリスティックに報道される際、コメントなどを寄せていることから、実体験を生かした視点から鋭い指摘を発していることに、徐々に関心の中心がかわっていきました。「犯罪」という、多くの一般者が<負>の側面として位置付けている事象から、実際に「犯罪」に達するまでの「社会適応の困難さ」のプロセスを丹念に追うことで、「人はなぜ罪を犯すのか」という本質的なテーマを探る手がかりを、えてして自分らにとって都合の悪い部分に対しては目をつぶりたがる大衆(私自身も含め)に向かって周知させていく重要な仕事をしているのではないかと思えるようになったのです。

「コミュニケーションの不在、もしくは不充分さ」これが人と人の関係に軋轢をもたらし、誤解と猜疑の果て、双方に妄想や自己のエゴを肥大化させ、自己中心的な行為へと加速させていくこと、そして社会的にまだ機能としての補完的状況が不十分な状況に置かれている障がい者の場合、この循環に陥りやすいことを多くの犯例をもとに解き明かします。

ややオーバーな言い方かもしれませんが、16年間作業所をやりながら、ここに書かれている様々な障がい者とのやりとりで派生する事象の素形は、私もほとんど体験してきていますし、常に日々の生活にあるものです。そう、この本に対しては、こういう言い方もできるのです。な~んだ、こんなことは障がい者と接していれば、日頃よくあってることじゃないか。うまく話し合いができるかと期待し一歩進んだ途端、突然に起こるこちらへの恫喝、やる気を引き出そうとして、結局は最初からそうしたかったかのような、結論ありきにしぼんでいく循環の繰り返し、様々なミスを修復しようとこちらが必死に動いても、何食わぬ顔で「反省」や「感謝」という観念さえ持ち合わせない(実際にこの感情は人間関係の上で結ばれる非常に高度なもので、「自尊感情」の生育とも関係し深いテーマを孕みますが)かに見える決定的な断絶……。これらは、いわば当たり前であり、それを生じさせる関係性を充分認識したうえで、ひとつひとつ健常者側の持ち合わせている観念の上皮も剥ぎながら、じゃあ何がいったいその上に両者が築いていけるんだろうかと模索していくことが、いわば「福祉」の大方の現場の常識なのではないでしょうか。だからこそ、この本が、社会、とくに最も底辺に置かれているとも言える犯罪者の置かれている状況を梃子に「障がい者」の生きている現実の厳しさを訴えていくことは、我々もどこかこれまで日頃やっているにもかかわらず、大衆の面前から隠してきた、あるいは見えないようベールを被せてきた部分と重なるのではと、反省ともども、う~~んと考えさせられるのです。

とくに「性」の部分は、ドキッとさせられました。果たして「福祉」は、あるいは「社会」は「品行方正」なモデルを障がい者だけでなく「人」に対して求めるあまり、本当の「性」による「喜び」、「愛」や「自由」の存在する場所を捨象してきたのではないか……。けっきょく良い本は最終的に読者一人一人のどこか触れたくない、でも捨て去りたくもなく引きずっていた場所へ微かでありながらも明確な鮮度をもった光を当て、問いかけてくるのだなあと、改めて思った次第でした。

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