「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『ダスト・イマージュ』/その三

 

「芳弘、お前も最近勉強やってないようだしな。ここにきてそうやって毎日漫画読んでどうするんだ」
 大田は、今ぼくの目の前で煙草をくわえながら、やはり、さっきから同じ姿勢のまま座っている。実際、今現在、彼が出なければいけない授業は隣の教室でおこなわれているのだが、篠見自身特別それに関して言葉を言い足そうとはしないしまた、彼らも、どうこうした動きは見せない。
 「篠見先生、社会見物ってこれ?」
 大田が、ぼくの目の前で手のひらを胸横に幾分出し、指先を柔らかく曲げ回転させるポーズをとった。
 「こないだは佐伯がついてたんだよな」
 するとそれに答え、隣でなにやら訝しそうに去年の大検問題集をほとんど気にもしていなく、つまらなそうに見ていたもう一人の佐伯がようやく口を開いた。
 「あの時は先生後半追い上げて、俺はこの人、進む道間違えたんじゃないかと思った」
 篠見はそんな話をにやりともせず聞いている。
 ぼくは、里子が来るのを待っていた。うまく喜代美と出会えたとするとそろそろやって来てもいい時刻だ。だが、一体今ここでまた昨日からの繋がりの残る二人顔を合わせたとしてなにが起こるというのか。篠見と大田、佐伯の顔がその喉首を同じように震わせて皮膚に血の気をなくし煙を吐き出しながら、締め切られた部屋の空気をじわじわと温めている。そのそれぞれの目はお互い時折り眺め合いながら、それでも力なく篠見の方は腕を頭の後ろに回し、他の二人もゆっくりと今やっていることにそれほどの執着を見せることなく時間の経つことを退屈に待ちながら、そうすることが一番の存在しつづける方法であるかのようにしている。
 この部屋での時間の経過の仕方をぼくは、不思議な断片のようなものの切り張りだと思っている。
 篠見に誰もが依存する形をとりながら、また篠見自身もそうなるようにもっていっている。その中で集まる生徒たちは、それぞれの秘密を、それでも人から見ればどうとでもとれる実に取るに足りないことなのだが、篠見を含めそこへ集まる他の生徒たちと分け合い、受け取り、貰い、いくらかの安心を獲得している。そういった形は溜り場という場所にはどこにでも共通してあるのだろうが、その中に何と言っても篠見の力が加わって、この部屋の持つ雰囲気が形づくられている。篠見は、生徒一人一人と一致するものをつくり出しているようだ。それは全体の一部かも知れないし、それが徐々に次々と一致するものの連続を持ち続け増えていき、何人かの生徒にとっては、増え続けた分だけ、それが躰の中に僅かずつ溜まり、新たに次の一致を繰返すことへ向かわせているのかもしれない。やがて久本が教室から出てきたとき、その顔にぼくは、一瞬嫌なものを見てしまった気がした。
 「おつかれさまでした」
 篠見の、ことさら慇懃めいた言葉の後
 「俺はやっぱり、英語の才能があるね」
 久本の調子にのった声が零れ、それに対し僅かに遅れて出てきた講師も苦笑いし 「どうせ単語とかもほとんど忘れてたんでしょう」
 篠見の問いに答えるでなく、 「まあ、これからでしょうね」その部屋に居とどまる素振り一つ見せず、さっそく奥へ向かうその後ろ姿は、やはり学生のそれでしかないと、ぼくは思う。
 久本は、ぼくをちらりと見ても特別意識したふうでもなく「ああ、疲れた」さっきまでとはうって変わり、それでも明るい調子だけは尾に引きながら、残っていたもう一つの椅子に腰を下ろした。その躰のもって行き方はぼく自身が、はっきりわからぬながらも、以前自分の中に包み込んでいたものと奇妙にどこかで一致する気がしてならない。久本は、その部屋に入るとき、扉を少し開け下を見、それからおもむろに顔を上げ見回すかに見えながらすぐに視線を決め、篠見の場所に結局は持っていった。それは、両者とも納得した確認済みの手立てと部屋に用意された各人との繋がりの妙を思わせ、逆にいえば、投げやりさを仕舞い込んだ互いの移り加減さをごまかして見えるようで、ぼくにはそれほど愉快でないのだ。
 「それじゃ全員集まったし、さっそく行くか」
 篠見の言葉が、そこにいる生徒たちを奔放に掠め採った。それは重たくもなく、身の周りを絞り込む。そこから逃れようという気持ちは生みにくく、諦めとは少々違い、話のわかる人と言った程度に受け止められてしまうことを苦痛とさせないものを備えている。「俺は行かないよ」ぼくは、言った。
 「そうか、リョウイチは里子ちゃんと待ち合わせているんだったな」
 あっさりそう言った篠見は、大田、佐伯、それに久本とともに出ていった。ぼくは久本と結局は、言葉を交わすことはしなかった。しばらくして、また別の一人の若い学生のアルバイトの講師がぼくの目の前を過ぎ、五分ほど経つと帰ってきた。
 「一人も来てないな」
 「ここにいた連中だったら、さっきそろって出掛けていきましたよ」
 ぼくは、そんなことを意地悪く返しながらも、自分の内側に、常に年もおそらくこちらが上であるはずの相手に対する自分自身の燻った塊りのようなものを露骨に感じ取り、それでも視線はしばらく逸らさず、そのままにしていた。相手は、それを知ってか知らぬか「あーあ」と吐息をつくように甘ったるい声を上げ、また扉を開けると事務所へ引き返した。それから十分ほど過ぎたとき、足音が、にわかに階段を走った。息せき切るといった表現がぴったりそれに合っていた。階段を一気に駆け上がり、筋肉が微妙に上下しそれに乗り、その動きそのままを持続させる恰好を通し、おそらくは行為者当人さえ気づかぬ、扉を勢いよく開け、躰をもぐりこませる動作のようだ。金具の壊れた戸が鈍い音をいわせ軋まり、盛り上がった響きを残しては、また静まった。
 誰か来たのだ。
 ぼくは、教師に知らせに行くよりも初めからそうしようと決めていたふうに、隣の教室の方を先に覗きに行った。扉の中には、その隙間から斜めに入った角度にまだあどけなさの残った少女の顔が浮かび、形を少し細身にするようにして座っていた。ぼくは、すまし顔にこちらに気付く素振り一つ見せずにいる相手に対し、一方的にたじろぎそうになったが、気を取り直して足を踏み込み、挨拶した。
 「こんにちは」
 初めて見る顔だった。瞳が大きく見開かれ、そのせいか頬は膨らみをわずかに湛え、眼球そのものが一旦溶け再び丹念に彫られ描き直されてきたような雰囲気だった。道路側から差してくる日の光が蒼白く閉ざされたその空間を包み込み、肉の薄い顎にかけて一部暗くし、一瞬それを見るものに硬い感じを抱き取らせるようだ。ぼくの挨拶を敢えて拒否しているようなところが、少女の躰のどこかしこに潜み、それを彼女自身半ば承知し、それでも放っとくわけにはいかず耐え切ろうとしているかのように、すぼめた口もとといわず、堅く閉じた足もとといわず、その丸みを帯びる一瞬手前の肉体そのものからなんとなく漂わせていた。返事が戻ってこないことに、ぼくは、またそれが当然であるかのような気もした。周囲をつかさどる壁や黒板や机、それらの全てがその少女を穏やかに包み込みながら、あってないバランスをかろうじて保つことに尽くし、どこか一点ズレが生じればたちまち消え入ってしまうような、そんなあやふやな空間を僅かに垣間見せながら、今はまだ何とかそこに彼女を踏みとどまらせているようでもあった。
 「授業うけにきたんだろう」
 自分でも、むず痒くなるような声をぼくは出した。低まりながらも、外に張り出したふうな声だった。少女は微かに頷き、また眉を僅かに皺寄せ怪訝な態度をとった。それがぼくには露骨な嫌悪の表れだと映り、そろりそろりと教室を退き後ろ加減に引き下がろうとしたそのときだった。
 「あの……、あなた先生じゃないんですか」
 ぼくは、それですべてが、わかった気になった。勘違いというものは、時と場合によっては日頃以上に逼迫した型どりとそれを良しとするに適した整いをもたらす。今まであるバランスをもって迎えられていた周囲のものは崩れ、これが日常の風景だとでも言うように、またもとの姿に戻った。ぼくは、少女に近づき、
 「君は新入生だろう」
 できるだけ丁寧に言った。言ってからすぐにそんな調子の変化を平気で行える自分が、確かに初めてここに来た者からすれば場慣れした職員かなにかのような気がするだろうと思い、可笑しかった。
 「そうですけど」
 「僕は、君と同じここの生徒だよ」
 少女は驚きを半ば表しながらも、動揺したほどの乱れもなく
 「すみません。私知らなかったもので」
 首筋を伸ばし、ジーパンとトレーナーの上からスエードのジャンパーを着込んだラフな恰好で座ったまま返事した。身体の線は確かにあどけなく細っそりしているが、やがて膨らむ芽を醸しもった、今は冷たい質をたたえながらも躰中から洩れ出る息吹が混ざりあったような体つきだ。やがてはおとずれる波をゆるやかに呼び起こそうとでもするかのように、しかしそのことも知らぬ気に、本来出しあぐねている活発さを、やや全面に差し向かわせようとしているふうにもそれは見えた。

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