「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『エデュケイショナル・スノウ』その三

              第二の報告
 総司令官閣下、たとえばこの地で、ある生徒が虹を見たとします。虹は、いつも存在しませんが出現するときがあります。それは、決まって雨の降っているときか、雨上がりのときで、子どもの示す反応もどうしてそんなときに現れるのか不思議に思う子がいたり、虹の美しさに見とれたり、まったく無関心であったりまちまちでしょう。しかしこれを統一し、学習行動を喚起させ、持続させ、完成に向かわせる動機づけとして充分なものにしようとしているのがCAN教育センターの狙いであると言ったらご理解いただけますでしょうか。知識の注入よりむしろその奥にある感覚反応そのものを錬磨し、子どもたちの意欲を呼び起こすに最適な効果を発揮できるようしていくことが、今現在、センターでは試みられているのです。
 それでは、学習内容に興味や関心を持たせるために最も必要な心理的作用とは何か。それは、稀にそんな子どもたちの中に、なぜ虹がこんなにも美しいのかを疑問に思う子がいることです。その子は、それを知るために、色の組み合わせに興味を持ち、七色に自分の肉眼で識別できることに気づくことでしょう。虹を組成している雨滴がプリズムの役目を果たし、光を分光することもわかってきます。そうすれば、太陽からふりそそぐ自然光は混合色であることにも理解がつながり、紫外線や赤外線の認識へも役立ちます。しかし、それだけわかっていても最後にどうしても解けない疑問にぶつかります。それは、なぜ自分がそんな虹を美しいと感じるかです。その子は、この重い問題に三日三晩悩みつづけます。とても小学生や中学生には耐えられないことかもしれません。ところが、ここにある一つの貴重なデーターがあるのです。このCAN進学センターの側からある操作、極めて限定的な設定をしてやると、その子はどんな形であるにせよその疑問に対するその子なりの答を用意して来るというものです。その設定とは、一人一人の子どもに応じて様々であり、多種多様です。ある場合には、単に答の期日を決めてやるときもありますし、また別の場合、考えさせる時間や曜日を指定してやることもあります。すると、驚くことにその子は見違えるほどに思考を深め、見事な答を導き出してくるのです。
 閣下、例を紹介いたします。中学校一年生の女の子の場合です。その子には、夜寝る前の三十分間を 考える時間 として、センター独特の『シレン』という形式で与えさせたとのことです。もちろん、家庭の方には本部のセンター側で決められた時間を必ずチェックするよう忠告してあり、万全の体制が整えられています。そして、この作文は、センターの会員を募集するにすべてを決すると言われていたさきほど御報告しました第一回目の説明会でこれまでとはまったくちがったパターンのもと、保護者へ配られる資料として使われたといいます。なぜ、書く側に夜寝る前という設定をしたのかは、後々閣下には念いりに説明させていただきたいと思います。
 『シレン』・その1
 わたしは、虹は、星に似ていると思う。星は夜、お日様がしずんでから空が晴れているときでてくるけど、虹は、雨がふっているときや止んですぐ、お日様がときどき顔をのぞかせるときにしかでてこない。だから、見るのもたいへんだ。前わたしは、虹や星をいろんなところで見ていた。とくに多かったのは、天井の木目模様が虹に見えたりしたことだ。夜、自分の部屋で布団に横になっていると、そこだけ気味の悪いほどモコモコ浮かび上がってきて、まぶたを閉じると、ちょうどそのうらっかわで色がパーッと飛び散ってしまったようになって、頭だけがほかのところから切り離されて宙に浮かんでいるような、熱がなかなか引かずうなされて、それでも眠くって目を閉じていると少しずつ階段を一人で遠くへのぼって行っているみたいな、うれしいのになぜか悲しい気持ちで自分の家から離れていっている、まるで、わたしをつつみこむものが、星か虹かのどちらかで、きれいなんだけどふわふわしていてなじめそうでなじめないへんな気分だった。でも、そんなときにかぎってあとで考えるとぐっすり眠れていたのも本当でとても不思議だ。 
 虹で、もう一つおぼえているのは、おじいちゃんの死んだときの火葬場だ。おじいちゃんは、わたしが小学校三年生のとき死んだのだけれど、いつもはあまり口もきかず、おこづかいをくれるときだけわたしは笑って、ありがとうと答えていた。きっとあのときも、そんなわたしのバチが当たったのにちがいない。おじいちゃんは、死ぬそのすぐ前にお母さんと病院へお見舞いに行ったときは、とてもつらそうに、一人で立ち上がることもできないくらいくたびれていて、体中しわだらけでやせていて、かわいそうなぐらいみじめだった。火葬場では、そんなおじいちゃんが灰になってしまうまえに、一度だけ燃えているところを見たい人にだけ見せてくれる。わたしは、なんだか死んだ人とはいっても真っ赤な炎の中についこのあいだまで生きてお話をしていた人が横たわっているのを見るのが、とても怖い気がして、残酷に思え、それでも、これでおじいちゃんと会うのは最後なのだからお別れをしておきなさい、というお母さんの言うことを聞かないでそばを離れていくわけにもいかず、しかたなく親戚の人たちの一番後ろにくっついていくつもりで、恐る恐る裏側へまわってみた。長いかぎのようなもので男の人が下に敷いてある鉄の板を引き出すとゴーッという、ものすごい炎の音といっしょに、おじいちゃんが入れられたお棺がその上にのっかってあらわれた。なんだか、チカチカするような青白い火のかたまりにおおわれていてよく見えなかったけど、おじいちゃんの目を閉じた苦しそうな顔がその中から突然ぬーっと浮かび上がってくるような気がして、わたしは、あわててまぶたを閉じてしまった。そして、みんなといっしょに、そのときはじめて手を合わせいっしょうけんめいお祈りしていたように思う。わたしは、今からふりかえると、そのときの炎が虹のように七色の光を放っていたような気がしてしかたがない。虹が、パッパッと大きく息をするように、辺り一面に広がっていくような、青い風のない空の下で昼間っからみんなで花火を囲み、線がいっぱい刻まれたセルロイドをとおして見ている、そんな不思議な感覚だ。星にもにている。もしかすると、あれが美しいということなのだろうか。人は死んだら星になるというけれども、ひょっとするとその前に、だれも知らないところで虹になるのかもしれない。でも、虹になったすがたをまわりにいるほとんどの人は、気づかない。わたしだってそうだ。今度、ここにやってきて、こうやって決められた時間に考えるようお母さんに勧められて、わたしは初めて気がつき出したのだ。わたしにそんな経験があったなんて自分でも驚いているぐらいだし、これまでもそんなことはぜんぜん知らなかったのだから。そろそろ、約束の三十分間も終わろうとしている。お母さんが様子を見にやって来る時刻だ。わたしは、自分からベッドに横になろうと思う。虹はまた、今度はわたしの夢の中に出てきてくれるかもしれない」
 さて、総司令官閣下、繰り返しますが今のは一つの例にすぎません。ここでもう一つ 『シレン』を紹介しておきたいのです。今度は、小学校六年生の『ユウメイシリツ』といわれる、ある中学受験を前に控えた児童の書いたものです。既にお手もとにはそれと同じものがとどいているかと思いますが、閣下には、ざっとその紙面に目をとおして戴きたいのです。それから話をすすめていくことにいたします。この子は、小学四年生のときからわれわれの調査の対象となっており、その後、このセンター独自の二時間ごとにステップを組んだ発展的学習方法によって、着実に学力を上げてきた生徒の中の一人ということです。それは、彼が特別優秀だったということを示すのではなく、ただ着実に毎日センターが与える課題を消化し積み上げてきたということにすぎないのだそうです。それでは、消化する力をやはり人以上にその子が持ち合わせていたのではないのかという疑問を閣下は持たれるかもしれませんが、それもたしかに当然のことと思われます。しかしそれには、このセンターの教育においてはプログラムがけっして数種類に分かれその型に嵌め込み押しつけるといった従来の学校教育で行われていたものではなく、それぞれの子どもに合わせた学習パターンによって分肢化と時間差の違いを考慮し、個人差に応じた細かなカリキュラムに基づく徹底した個別指導を行っていることからも充分それが見当違いであることをのちのち閣下は、御判断されるのではないかと思われます。
 その子には、先程の女の子の場合と違い、朝、学校へ通う前の三十分を考える時間として充てさせたとのことです。また、そのことについては女の子同様、のちほど説明することにいたします。
 『シレン』・その2
 ぼくは、にじを先生や友達といっしょに山登りしたとき一つではなく、二つもつづいているのを見た。滝が近くにあってざあざあ音がいっているそのすぐそばの岩がごつごつしている場所でお弁当を食べ、みんな食べ終わるころには少し天気も悪くなっていたので、早めにそこを下りることになった。みんながバスの駐車しているところまでつくころには雨は小雨だったけど少し頭に落ちてきた。でも、バスが動き出し、海岸を目にして走り出したとたん、いよいよ真っ黒になっていた雲のあいだからわっと大つぶの雨がふってきて、たちまち窓は水びたしになってしまった。雲の流れがはげしくてものすごいスピードで動いていた。雨はとても強かったけど、またしばらくするとやんでしまった。少し雲のうすいところから太陽が見えた。そのとき、今度はぼくの右手の方に二つのにじがつながって、ちょうど海と山とをむすぶように橋のようにかかっていたのだ。ぼくは、びっくりした。みんなもよろこんでいた。先生は、マイクを使って、どうしてにじができるのかをすぐに教えてくた。だけど、そのときはちんぷんかんぷんでよくわからなかった。それでぼくは、にじがどうしてあんなにきれいなのか知りたくて、あとで先生に聞きに行った。先生は、紙に書いてわかりやすく説明してくれた。だいじなことは、きれいなすんだ空気がないとあんな透きとおったようなにじも見れないということだった。とても勉強になった。それからぼくは、にじが早く見たいといつからか思うようになって、天気が少しでも悪かったり、雨がやんで少し晴れ間がのぞいていたりするとできるだけ空を観察するようになった。自分でもホースを使ったりなどして実験をやってみたが、なかなかあのとき見たようなにじを思いどおりにつくることはできない。とても残念だ。ぼくは、いつの日か、世界で一番きれいなにじを自分のこの目で見てみたいと思っている』

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