「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『エデュケーショナル・スノウ』その十四

              エピローグ
 非常用扉の大きな窓には、暮れかった薄い浅黄色の膜に覆われた景色が映っていました。その横には襞を幾本も折重ねながら内臓のように落し込んだ通気孔があります。そのすぐ真下に見えなくなる孔の中には、何か深い叫びのようなものが、いくら手につかもうとしても馴染めない樹液のようなものに塗固められ、押し込められているようです。
 綾と健一も、もしかするとこの『レモラ・ハウス』にいる短い時間の間、こんな空洞へ何やら口では言い尽くせぬものを投げ込んでいたのかも知れません。コンクリートの白壁に、ラウンジから漏れてくる螢光灯の明りを手がかりにやっと像を結んだ一人の男の影が距離を置いて縦に伸びています。等身大よりやや大きめなはずなのに、なぜかそれは同じくらいの大きさに思え、それでいて他人の影のようによそよそしく、時折りほぐれたように白みます。総司令官閣下、それは瀬上の姿です。
 瀬上は、片桐からの電話のあと受話器を置くと窓から視線をずらし、それからしばらく影と向い合い立っていました。
 綾と健一は、たった今母親に連れられて帰っていったばかりです。瀬上は、今日は送りに出ず、一人この『レモラ・ハウス』に残っていたのです。ときどき肩口を膝の上へ落とし込むように相手の影は踞み、またすぐに立ち上がったかと思うと横へ退き、今度は上下に揺らぐと静かに近づき、独言をするように、さっきから耳をそばだてている瀬上の方へとつぶやいて来るようなのです。
 閣下、報告文は、確かに終わりました。しかし、私はこれを最後の私からあなたへのお手紙としてやはりお渡ししておきたいと思います。もう一度、我々視察団の見てきたことを確認するためにも、その根もとのところからある予想とある確信を込めて出発した手前、これを最後の、閣下へのほんとうの私の気持ちといたしたいと思うのです。
 閣下、原初の宇宙にあって水素とヘリウムの質量比がそもそもの運動の出発点だと仮定をします。そうしますと、センターやこの地の『ガッコウ』にとって生徒は一対の二項対立そのもので、これまでひたすら水素の役目を果たしてきてくれたと思われます。
 それから判断してもヘリウムというのは、我々大人や、あるいは教師たちの側を意味します。二つのうちそのどちらかに自己を固着化させ早々と腰を落着けてしまったため頭の中身が信じられないぐらい急速に固くなってしまった実体的な対象と言ってもいいのではないでしょうか。ところが、その二つの変成の後、実体としての質量に耐え切れなくなった我々大人の歪みを持つ空間はじっとして生きられないことは知っておりますから、渦をつくり凝縮することでときどき爆発を起こし周りに乱暴を振るったり、そうかと思えば果てしなく歪みを収斂させ、同時に厄介なことに別の場所では他人とさらに入り組んだ関係をつくるなどして拡張を遂げ、これまで様々な末期の足掻きを繰返し生延びてきたと考えられます。
 瀬上は、そのとき、向かい合う影との距離をはかり、何か私たちにもはかりしれない思いで声を上げようとしているようでした。しかし影はそれを重々承知したように彼には何も話す隙を与えず、揺らいでいるだけです。
 閣下、この地の教育体制が、たしかに閣下が申されたようにいつまでつづくかどうか、私どもも正直危惧しております。しかし、今は、ただ進化するものの鉄則を踏んでいるだけにすぎぬと申し上げておかねばなりません。
 『まるで君の言い方は、子どもたちには今生まれてきたことをあきらめてもらうより仕方がないって言ってるみたいだ』
 そのとき瀬上の声がしました。影と向かい合ってから彼は、この時初めて言葉を発したようです。久しぶりに話したせいか興奮を隠し切れず、咽喉の奥で息が唾液と混ざり少し掠れているように我々からは思えました。
 総司令官閣下、子どもたちは子どもたちなりに進化しようとしています。案外悲観的になっているのは我々大人の方であって、子どもたちはそこのところはうまく乗り越えていけるようにしっかりとできていると思うのです。大人たちが生きた以上に十分に生きていけているはずなのです。閣下、我々大人も老化といっしょに一応の進化はたどってはいます。その辺は組み合わさった二つの歯車と同じでわりとうまくいってると言っていいわけです。総司令官閣下、肝心なのはそのバランスそのものなのです。
 『しかし、その肝心のバランスが壊れ出したらどうなる。いや現にもう大方壊れかっているか、潰れてしまっているように僕は思うんだが』
 瀬上の声がまた、してきました。彼自身、一人言のようでしたが、そんな質問を影にしているともとれました。彼にしてみれば、今ある胸の塞ぎが幾らかでも取り除けるならばと思っていたのかもしれません。しかしただの影にすぎない相手が、そんな瀬上を対峙するものとして取り合わないことはわかりきっています。
 総司令官閣下、旧いバランスの後には、また新しいバランスが生まれてくることがくりかえされます。
 二つの歯車が組み合わさっていれば、一つの歯車の歯数と一定時間に回る回転数が決定していることで、もう一つの歯車の、それと同じ時間に回る数はその歯の数に従って少しの狂いもなく決まってしまう、そんなこれまでただ機械にだけとおっていた定義を閣下は信じられることがおできになりますか。それと同じことなのです。その尺度でとらえていたら教育など必要でなくなってしまいます。バランスは意志とは関係なく不完全なものなのです。その意味でも、だれかがそのバランスが壊れたように思うとしたら、それはそれで事実です。ただ、まだその人物が新しい枠組みの中の自分の新しいポジションに不賛成か、不慣れなためそこから全体が見渡せないでいるだけともとれます。問題はバランスであり課題は個々の内部にあると言っていいのです。閣下、おわかりになられますでしょうか。そうとらえようができまいと歯車は大抵のことはやり過ごさせてしまうのが、この地といわず我々の世界の現状なのです。バランスは、全体で一つであるように見えながら、実は各人の中にそれぞれ存在しているようなもので、とくにこの辺境の地に少しずつ潜みながらも暮らしているとわかってきます。だからといって人の数あるためそれで済むというものでもなく、人の数だけありながら、それがまた大きなバランスをつくりだしてもいるのです。子どもたちは、基本的には与えられた事をやっていく生き物と思われます。大方は主導権を握っている大人たちが、ときにはそうではない子どもたちも一緒にさせてそのことを知っていようがいまいがお構いなしに今ある自分たちのバランスを保つことに専念させてしまうことになってしまうのです。たとえそれが不完全で不十分なものだと最初からわかっていてもです……。
 『どうしてそんなことを繰返してしまうんだ?』 
 瀬上は、影に鸚鵡返しにたずねているようでした。
 閣下、誰でもそうですが、孤独が怖いのです。大人も子どももそれは関係ないのです。 瀬上の影は、洩れてくる光だけでは少し心細いらしく壁を伝って広がり切るには少し弱すぎて、さっきから困惑しているようでした。それでも風に揺れる蝋燭の光のようないつ消えるかもしれないそんな不安定さはなく、やがてまた輪郭を徐々に取りもどすともとの自分を思い出したようでした。
 閣下、CAN進学センターも同じことです。それ自身一つの巨大で不完全なバランスなのです。色々な歯車が幾つも組み合わさって回っているに過ぎません。子どもと保護者と職員と受験と学校教育と地域と町と数え切れない歯車がそれぞれに噛み合わさり見えないシフトに連結され動いているのです。でも問題は、その一つ一つの歯車ではなくて全体の不統一なバランスの方にあるのです。
 瀬上の影に変わったところはありませんでした。ただ、幾分前と比べると疲れたような、そんな力の抜けた感じがどこからか汲み取れました。影は本当は自分の本体と向かい合うことが苦手か、あまり好きではないらしい様子でした。
 閣下、片桐と老人の会合の後、一週間してから『レモラ・ハウス』での第一回目の子どもたちの入寮が行われたとき、既に瀬上の姿はセンターから消えていました。
 代表の片桐は、それに対し堅く口を閉ざし職員たちには何も言わず、平然とした態度を保ちながらセレモニーに参加しましたが、誰の眼からもそこに漂う裏切りと動揺の色は隠し切れないふうでした。私どもが調べようにも、やはりその理由、つまり瀬上がいなくなったその原因までははっきりとはしないというのが現実です。
 しかも、職員たちを驚かせたのは、それだけではありませんでした。『レモラ・ハウス』がその開寮からわずか数日たって早くも名称の変更が行われたのです。それには、合宿日に当たっていない期間が選ばれ、子どもたちには知らされることなく一部の職員たちの間でパンフレットから建物に刻み込まれた文字まですべての変更の手続きが速やかに行われていったのです。銀色の屋根の建物には、『クラーケン・ハウス』と光沢を浮かべた鉄の文字がプレートに埋め込まれることになりました。
 海岸から吹き寄せる潮風を受け、特別加工されたその文字は錆びることもなく、海の巨大な海龍クラーケンにふさわしく、辺りの島々をのみこむように輝きを放ち、その後子どもたちを一人、また一人と受け入れていったことは、閣下、今さら申すまでもありません。 閣下、この地にも夕闇が迫っています。日は、広大な内海を越え聳える丘陵の向う側に沈み切ってしまっています。しかし、その光の残照は鮮やかに今も残っているのです。
 それから数日たってからなのですが、一人の男が、ある駅の向かいのビルの食堂に窓に身を擦り寄せるようにして座り、食事をとっていたという情報が入ってきていました。彼は食器から目を離すと、そことは遠近を逆にする眼前の駅舎をただじっと見ていたそうです。幾つものレールが地面を匍うようにホームへ集まりその列車の車両は、この駅が都市からかなり離れた近郊の終点でもあるため客数も少なくそのときは疎らでした。その中が、角度をつけてはいますが、調査をする者にも何か目の前にあるようにはっきりと見渡せたと言います。網棚に置き忘れられた週刊誌の類いまで、はっきりと見透せるそうなのです。それぞれの客は立ち上がり、どの車両にも等しいぐらいの人数が重たげな動作で張りつくように、仕事を終えた安堵感か躰の隅々に残る疲労のためか、どこか隠し切れぬ投げやりさを込め扉の前に立ちじっとしている情景は、まさしくこの土地独特のものです。そのまま電車は静かに滑り込み、一つの市電の向うにはまた別の会社の市電の駅があり、その両方の駅にたまたま一緒に二つの車両が入ってくるとその距離は縮まり、二つの車両が調度重なったようにそれぞれを上下に位置させていきます。人々は下り立ちます。上空では山際に赤い炎がゆらめきその上は黄色がかり、そしてまたその上はそこから少しずつ青味がかっていきます。やがて透きとおった青になり、霞んだ雲に溶け菫色に染まるとそれもわずかで、もう闇が日の沈んだ中心から引き摺り下ろされ、その弧自体を絞り込み丸みを細らせるようにそちらへ連れ込まれ、持って来られているのがわかります。日が沈んでからずいぶんと長く感じられる一瞬です。燃えるような赤の次は、今度は淡い茜がむしろ同じように長く散ったように線を描きだしていました。
 電車の中では清掃も終わり、また出発の準備が始められている様子です。車掌が忙しく立ち働いていたことでしょう。線路は闇の中に見えなくなっています。山際から山裾へ赤い残照は降り、それでも照らします。一瞬白みがかったようにそこが霞んで見えた、と記録には明記されています。例の食事をとっていた男は瞼を凝らしたでしょうか。照明の中、電車のホームを行き来する人々の影とその白い影が交錯したでしょうか。山際に全ての色が出揃った感がしていたかもしれません。沼のような内海は陸と山と空とを一つにしたようにそこにうっすらと伸び広がっていたことでしょう。アパートのように立ち並んだ列車は行き急ぐ乗客たちの住家のようにそこにあるだけなのですから。工場は地面に横たわり腰高にその全体を寝かせています。
 情報によると、彼は食事もそのままにそこを立ち、別のところへ行こうとしましたが、ふとまたさっきの山裾が気にかかり窓枠へ歩み寄ったそうです。山が一瞬紺青に色づき浮かび上がったように思え、男は怯んだように躰を竦ませ、またすぐにそれも消え、視線をもとに戻すとようやく闇は底に下り立ったと詳しく書いてあります。
 閣下、この男が瀬上だったのか、または二人の子ども綾や健一と母親の前から姿をくらました男の姿だったのか、果ては臨時採用の男木村だったのか、私たちにも想像がつきません。ただこのとき、やはりうっすらと白い粉雪が人々の上へ下り立つように舞いおりていたことだけは付記しておかねばなりません。
 
                                     (了)

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