「共」に「生」きる。 in 阿蘇

芥川賞作品『乙女の密告』(赤染晶子著)を読んでみて。

『アンネの日記』(原題は『ヘト アハテルハウス』=「隠れ家」に近い意味があるそうです)を題材に、それを暗誦しスピーチコンテストに出ることで単位を取得せねばならないゼミ生(通称「乙女」)たちと猛烈なしごきで有名な教授バッハマン、彼がいつも手放さないアンゲリアという名のついた人形など、素材には事欠きません。
またゼミ生にもなかなかのくせものがいて、何年も留年し秘かに教授に恋心を抱きながらスピーチだけに情熱を傾ける「麗子様」(彼女はいつでも練習できるよう、首には防水のストップウォッチをかけています)、ドイツからの帰国子女「貴代」(日本の生活に浸るに従いドイツ語を忘れていくことに苛立ちを抱える、言わば外国語を学ぶことで日に日に新しい視座が開かれていく主人公みか子とは逆ベクトルにある存在です)など、やや漫画的ではありますがユニークなキャラクターがそろっています。
そもそも『アンネの日記』の最も重要(印象に残る)であろうと一般的に言われているのは1944年4月15日のアンネが少しずつ心を惹かれていたペーター少年とのキスシーンとされているようですが、まず作中のバッハマン教授が学生に暗誦するよう指示した日がそれより6日前の4月9日であるところから、なにやら謎めいた展開が始まります。
なぜその日が重要なのか。
この日は警察が隠れ家のドアのすぐ後ろまでやってくる緊迫した日なのです。アンネは言います。
『誰がわたし達ユダヤ人を世界中の民族とは違う異質なものにしたのでしょう? 誰がわたし達ユダヤ人を今日までこれほど苦しめてきたのでしょう?』
おそらく彼女は生死の極限に来て、それまで以上に「ユダヤ人」としてのアイデンティティーに突き付けられた戦時下における過酷な状況の中、その意味するものとは何なのかについて葛藤するのです。
『わたし達ユダヤ人はオランダ人だけになることも、イギリス人だけになることも、決してできません。他の国の人にも決してなれません』
しかし、みか子はある特定の個所に行きつくたびに、スピーチ中に決まってど忘れ(記憶喪失)し、練習時からうまくできません。その一文とは
『今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人なることです!』
そうです。まさしくそれはアンネがそれまで口にしていたユダヤ人としてのナショナル・アイデンティティを外に向かって叫ぶ主張とは反対にいわば内向し、否定(放棄)ともとれる言葉です。
物語はいわばこのアンネのアイデンティティーをめぐる「自己」と「擬自己」(自己内の中につくられ本質的には「他者」に近い)との葛藤に対して、みか子の「私」という現実存在と「乙女」である社会から与えられたフレームワークとのぶつかり合いを重ね合わせながら進んでいきます。つまり、その統合のなりゆきから見ていけば、一人の少女の成長をたどった青春小説とも言えるかもしれません。
そもそも「自己」なるものはあるのか。そしてその本質とは何のか。
ここでは「乙女」に象徴される社会内のポジションがまず彼女たちには用意され、そこから逸脱(排除)、もしくは脱出することによって初めて地上での自分の周辺の事態が俯瞰できる、客観的でありながらかつ主体性をもった「自己」へ転化するという西洋の自己意識への発展の行動哲学としての王道が踏まれています。
しかしふとここで私などは疑問に思います。
はたして作者は、そもそもここまでユダヤ人のアイデンティティーにこだわるというのであれば、その『概念』としてどのような枠組みを考えているのだろうかと。人種的か、宗教的か、地理的か、そこのところがぼかされ、私には正直明確な線が見えませんでした。
おそらく、人間意識内で、自らが「ユダヤ人」と思えばそうなのだ、というところに落ち着きたいのかもしれませんが、こと「ユダヤ人」に関しては現在もイスラエル・パレスチナ問題で進行中であり、そう簡単に言い切れるテーマではないことは自明です。
『ホロコースト』とは対極に常に1948年のイスラエル建国宣言後、パレスチナが被った『ナクバ』をどう2010年の現在の時点と結びつけるのか。舞台が大学であり、主人公が学生であるがゆえにこそ、どこかで描かれてしかるべきではないか、そんな不満を持ちました。
最後にみか子はスピーチコンテストで暗誦部分から逸脱(すなわち「擬自己」から「自己」への昇華を意味します)してこう言います。
「わたしは密告します。アンネ・フランクを密告します……アンネ・フランクはユダヤ人です」
この『わたし』とはだれか。『アンネ・フランク』とはだれか。密告は『だれ』に向かって行うのか。
みか子のこの科白に対するバッハマン教授の納得したような「頷き」には選考委員の一人である村上龍が強く違和感を唱えていますが、それはまた機会があれば読んでみてください。(ちなみにネット上の『龍言飛語』でもくわしく話しています)
そのほか、下世話な部分でたとえば、みか子は母子家庭で、母親がそう若くない年齢にもかかわらずホステスで生計を立て、果たしてその収入だけで(彼女はアルバイトもせずひたすら語学の習得に励んでいます)食べていけるのか。また共通することですが、登場する人物たちには「生活感」といったものがまったくありません。またバッハマン教授の正体は? ユダヤ人、それとも……。
など気になることも多かったのですが、たまたま知人より『文藝春秋』をいただき、せっかくの機会に今回は、芥川賞作品について書かせていただいた次第です。

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