「共」に「生」きる。 in 阿蘇

レヴィ・ストロース考・つづき

「差別」をどうとらえるか?
彼は意識的に何度も、いくつかの場面で表記しています。
その根本は、たとえば、差別をされるものが、ある場面では別の層を差別する側にある、といった多面的な状況を交えた重層的関係にとらえるにとどまるのではなく、差別というカテゴリーの中での「力」の関係を読み解き、差別するもの=加害者、されるもの=被害者といった平板な図式自体を解体していく重要性を語っていることです。
インドのカルカッタを旅したとき、いたるところで出くわす物乞いについてこう書きます。
「これらの不幸な人々を平等な人間として扱いたいと願ったとしても、彼らはこの不正に対して抗議するだろう。彼らは、平等になりたいと望んではいない。彼らはあなたの威勢によって、あなたが彼らを踏みにじることを哀願し懇願しているのだ。つまり、あなたと彼らを分けている隔たりを拡大することによって、彼らはひとかけらの食物を期待しているのであり、われわれのあいだの関係が緊張したものになれば、それだけ彼の実入りも増えるのである」と。
よって、「体制という観点で見れば、体制を破壊することから始めない限り、状況は逆戻り不可能」ということになり、物乞いに対する一切の「拒否」から始める必要性へと導かれて行きます。
「権力」とは、ある力と力との関係といったのはフーコーでしたが、発する側と受容する側との関係の中から「善」や「悪」といった文脈をいったんぬきとり見ていくこと、ア・プリオリに認識している(と思い込んでいる)価値観をいったん蓋然性のもとに払ったのち、「関係」を根本から捉えなおすこと。おそらく彼は、
アマゾンやアジアを旅する中で西洋そのものを客体化していくことを学んでいったのだと思います。
けだし「旅」とは自己そのものの客体化なのかもしれません。

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