「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『悲しき熱帯』(レヴィ・ストロース著)を読み終えて。

ようやく、レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』(中公クラシックス・川田順造訳。以下はそこからの引用)を読み終えました。
あらゆる自然、地球上の万物は、ある種、無造作に散りばめられているように見えながら、極めて秩序立って存在しているということ。
それに関することは、私も阿蘇に住んでいて、特に山の中にちょっと入ると感じることがあります。ある年繁茂する植生が次の年はパタリと止み、つぎには別の種が旺盛に繁殖します。それには一見、秩序といったものはないように思えるくらいいったいなぜ今頃これが? と不可解に頭を捻ることが多いのですが、そういったことを10年くらいのスパンで見てくると、なるるほど、だからあの年はこうだったのかな、とようやく自分なりに腑に落ちる理由が見えてくるのです。
それにしても人間にとって「知」とは一体何か。この書をよんでいると、そのことを考えずにはいられません。西洋のいわば頂点のような「知」=哲学を最高学府で教育を受けた人間が、アマゾンの奥地に入った時見(えてき)たものは? その「眼差し」こそがこの紀行文をただの記録性を超え、ある種の思想書にまで深めているのだと思います。
対称性と非対称性という問題も面白いテーマです。さきほど「秩序」と言いましたが、外からでは、一見未開の地にしか見えない部族の生活習慣も、その内実は、しっかりと「対称性」と「非対称性」を含有しており、個別性と他者との共有性を併せ持つ関係を維持しているということです。
レヴィ・ストロースは言います。
「人間の社会は個人と同じく、遊びにおいても夢においても、さらに錯乱においてさえも、決して完全に新しい創造を行うことはないのだ」「理論的に想定可能な或る総目録の中から,いくつかの組み合わせを選ぶに過ぎない」と。
ある意味、絶望的な言葉のようにも聞こえるのですが、確かにそこから出発するしかないのだな、とも思うのです。
われわれが生きながらえながら駆逐していっているもの、あるいは駆逐されつつあるものとは一体何か。ある「繰り返し」の中に、ある「パターン」とともにほんのちょっと模様替えしては、新気分になったように思いこむ「癖」を大事に抱えながら生活している毎日……。。
『悲しき熱帯』はいわずもがな『悲しき人類』の書であると思います。

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