「共」に「生」きる。 in 阿蘇

二十八年たった富士山の思い出。

二週間ほど前のこと、ふとテレビをつけると富士山の山開きのニュースがあっていました。
おそらく山梨県側の吉田口から登ったであろう風景(なぜならいくつもの見覚えのある山小屋の軒先が登山者の背景に入っていました)、ご来光を拝む人達……、暦をみると7月1日。なるほど、私は懐かしい記憶の一コマを思い出しました。
大学二年の夏、この山開きの日から、8月31日の山を閉じる日まで、富士山七合目の山小屋『日の出館』でアルバイトをしていたのです。
当時私は、よくある青年期の悩みというべきか、いろいろと思う所があり、地上での生活に嫌気がさしていました。まあ、人間の営みに絶望(今から思えば、はなはだ甘い感覚なのですが、そこはご容赦を)に近い感覚を持って、とにかくそこから離れたい、できることならずっと遠くで暮らしたい、とそんなとき、目に飛び込んできたのが、生協のガラスに貼ってあった富士山でのバイト募集のポスターだったのです。
すぐに葉書で申し込み、了承の返事がきました。
正直に書きますが、実はその当時、友人らと自治会の選挙に出馬し、それまで長年勢力を保って来ていた某政党の青年下部組織に対し、NOをつきつけたのはいいものの、あえなく敗北し、そんなこともあって、ほとほと疲れていたこともあったのです。
それでもよく街中の集会や会合には顔を出し、そんな流れである映写会に行ったとき、映画はかの有名な『戦艦ポチョムキン』でした、それを見た後、下宿先の住所を書いたがため、毎晩、主催した社会人の労働組合の人が立ち替わり入れ換わりオルグにやってくることとなり、その対応にほとほとまいってしまい、そんなこんなもあって、逃げ出す場所として選んだのが富士山なのでした。
若気の至りか未熟か、私は、富士山というか、山にはシーズンなどなく、ずっとそこにいれるものと思っていました。願わくば、一生、三千メートルの上空で暮らしたいと。
(なので、8月一杯で小屋を閉めると聞いたときはかなり落ち込みました)
「いいずら。宮本さん、うちは下でカメラ屋やってるから、そこでバイトするずら」
山小屋のおかみさんは親切にもそう言ってくれましたが、地上でバイトするためわざわざ富士山までやってきたんじゃないと、シーズンが終わった時どうしようか、そのことを考えると途方にくれたのを覚えています。(もし当時、私がカメラに興味があり、本気でやりたかったら絶好のチャンスだったかもしれません。なぜならそこの長男は富士山のご来光や自然を専門として撮影し、いくつかの賞を受けたプロのカメラマンだったのですから)
しかしそんな中で、現実の労働を通して、いろいろ勉強させてもらいました。
まず初めに、私が山小屋に到着(夜の八時ごろつきました)して翌朝、指示された仕事、それは深い穴を掘ることでした。身の丈くらいの深さの穴を掘れと言うのです。
何に使うのか尋ねると、シーズン中の登山者のゴミを捨てる穴だということでした。つまり、私が現実逃避から遥々行ったその先の富士山で、最初にした作業がきわめてより現実的なことだったのです。どこへ行っても人々の生活はついてくる、それが二十歳の私の直感したものでした。
それからいろんなことを知りました。
例えば山小屋の夜のライトは組合で同じ明るさの照度に決められれていること、なんとなれば、登山者が平等に選択できるようにとか、五合目で待機する道案内人のそれぞれの契約している山小屋との取引を裏切らぬための暗黙の約束事などです。(でも実際こっそりと別の山小屋へと登山客を紹介している人もいました)つまりそこには地上社会と変わらぬ、むしろそれ以上のいびつな取り決めや「嘘」があり、それにより山小屋の経営は長年維持されて来ている現実があったのでした。どちらかといえば中世ヨーロッパに近いギルド的なつながりが必要悪として認められていたのです。
そんなこんなで、けっきょく来たとき1人、そして最終日の帰る時も1人(バイトは北海道から沖縄まで、多い時で5人ぽどいましたが)ということになり、またまた北九州の下宿へ重い気持ちを抱えながら帰った次第です。
数日後、夜に、二月前、しつこくオルグにきていた男性二人がやってきました。
その中の1人がこの二カ月、いつきてもいなかったがどこに行っていたのか尋ねるので、富士山に行っていたと答えると、はなから信じられないというか疑うように、ウソだろうと真顔で言うのです。
そのとき私は思いました。はは~ん、どんなに政治的に、あるいは観念的に先鋭的な言葉を振りかざしていても、内実は想像力に欠け、人間の行いというものをそもそも嘗めてかかっているのだなと。明らかに相手の体験知をこちらが超えていると実感した瞬間でした。このような「政治」的言語を巧みに組み合わせ振りかざす人達こそ信じられないと。
私が富士山での二カ月で体験したものはまだまだとうてい書きつくせませんが、ざっと今、思い浮かぶことを同じ7月のこの時期、二十八年たった今だからこそ書いてみました。
私にとっての「旅」とは、その数年後行くことになる沖縄や屋久島もそうですが、常に、そこに住む人達、または生活を営む集団との関係に対し、自ら持っている予見としての認識との葛藤であり(ほぼ逆行することが大かたなのですが)、それを経た後、どう切り結んでいくのか、そのことなくしては語れないような気がします。

コメントはまだありません

TrackBack URL

Leave a comment