「共」に「生」きる。 in 阿蘇

11月27日に『菊地恵楓園』から宮地小学校へきていただいた関敬さんの講演内容を、ご本人の許可がありましたので、ここでご紹介します。

みなさん、こんにちは。
私は、今日、みなさんに私の16才のころのできごとをお話するのですが、それは生まれて初めてのことです。
まして、それが阿蘇の小学校ですることになるとは、今まで思ってもいないことでした。
私のいる療養所には、みなさんのような、小学生は、もちろんいません。それで、近くの学校から遠足や絵を書きにきてくれるのをほほえましく見ているだけです。
だから、そんなみなさんにお話する機会がもてたことを、たいへんうれしく思っています。
実は、私は、詩や小説などを書いてるんですが、そのことで知り合った、ここにおられる夢屋のミヤさんから、ぜひというお願いで、やってきました。
うれしい反面、うまくできるかどうか、心配で、とても緊張していますが、せいいっぱいやってみたいと思いますので、どうかよろしくお願いします。
もう一つ、私の名前の関敬は、ペンネームです。
療養所では、出身地、氏名はよほどの仲でないと打ち明けません。
一人で偽名やペンネームをいくつか使いわけ生活しています。その理由はおいおいわかると思いますが、所内ではそれがとおり名になっていて、大げさに言えば、本名をわすれ生活しています。まず、そのこともみなさんにお伝えしておきます。
さて、私の話にうつる前に、国立ハンセン病療養施設の菊池恵楓園がどんなところか、ちょっとだけお話ししておきたいと思います。
まずは、みなさんに質問があります。
みなさんの中で、恵楓園に行ったことがある人はいますか?
名前を聞いたことがある人は?
恵楓園は、明治42年、西暦で1909年に、今の合志市にできました。
植木市などのある、農業公園(カントリーパーク)のすぐとなりにあります。
人間の年齢にすると、今年で97歳になりますね。
広さは、およそ19万坪で、みなさんの学校が、19個ぐらい入る広さになります。
ずいぶん、広いですね。
なにを目的につくられたかというと、ハンセン病、当時、らい病といわれていましたが、その患者の人を治療したり、お世話したりする目的でつくられました。
当時、ハンセン病は、体にさわったり、近くにいるだけで感染する(うつる)病気といわれていました。それで「らい予防法」という法律が1907年にできて、この病気にかかっている人は、住んでいるところから切り離され、療養所で生活することをしなければならなくなりました。
しかし、それが、やがて医学の発達で、まったくのまちがいであることがわかりました。
ハンセン病の菌はひじょうに弱く、人にかんたんにうつったりはしないこと。それと、1941年(昭和16)には、アメリカで開発された「プロミン」という薬で治るということまでわかりました。
それで世界では、隔離政策はやめて、ふつうに自分の家から通院しながら治療するという動きになりました。
しかし、日本では、戦争が終わってからも、正しいことを知っているお医者さんたちが、そのことを隠し、議会の場で嘘の証言をしてしまい、「らい予防法」は残り、1996年(平成8)にこの法律が廃止されるまで、ちょうど皆さんが生まれた年になると思うのですが、切り離すやりかたはつづいたのです。
そこで、そろそろ私の話にうつりたいと思います。
私は、昭和18年、1943年、まだ太平戦争(第二次世界大戦)があっているとき、16才で、この療養所に入所しました。
療養所に入る決心をする前の月、七月に父につきそってもらい、大学病院へ診察へ行きました。
皮膚科の診察が終わると、父が言いました。
熊本には宗教の病院と国立の病院がある。どちらかの病院に早く入院させた方がいいとお医者さんに言われたというのです。
さきほども言いましたが、日本は戦争中で、食品、衣料、生活用品など自由に買えない時代でした。
ただでさえ暗いのに、私の家はそれにもまして、打ちのめされた暗さでした。
誰にも語れない、人に話してすむでなし、家中が息をひそめ、私の一挙手一動に神経を使ったものです。
ついに、決心しなければならないときがきました。
お盆入りの日暮れを待って、迎え火をたき終わり、私は一人、父に呼ばれ、仏間に入りました。
仏壇には、お供え用のお膳がすえられ、食事事情のわるいとき、いろいろ家事のやりくりがじょうずだった母の工面で、夏野菜、くだもの、まんじゅう、団子など、少ない量ではありますが、そなえてありました。
父に呼ばれた私は、まず最初に、父の後ろで仏さまに手を合わせました。
父は、仏さまに長いあいだ、何を願い、何を話していたのでしょうか。
澄んだ鐘の音が、チーンと鳴りました。
向きなおった父は、膝をくずすように私に言って、決断したように話しだしました。
「大学病院のことはおぼえているか。
お前が診察室を出た後、いろんなところを消毒されたよ。知らないだろう。
他の診察者のこともあるし・・・・
つらかったなあ・・・・・
先生からお前の病名を聞き、治療法や薬のことなどをいろいろたずねたあとで、あのときも言ったと思うが、やはり病院に入院するのが一番いいだろと教えてくださった。
二、三年もすればよくなると言うんだ。
お前も知ってのとおり、町の病院では手のほどこしようがないんだ。
今のままだったら・・・・悪くなるばかりで、先々苦労するよ。
先生から病名を言われて、・・・俺は病名を知っているし、何度か見たことがある。
お前は知らないだろうが、患者は見たことがあるだろう。敬、すまないが、病院へ行ってくれないか。・・・すまない」
そう言って父は頭を下げました。
「うらむなら私をうらんでくれ」
そう言う父に私はむしゃぶりついて、父の胸をたたいて泣きました。
泣きながら、ふと気づくと、父もまた、泣いていました。
生まれて初めて、父の泣き声を聞きました。
歯をくいしばり、もれてくる父の泣き声を聞いて、なぜか私は、父を悲しませまい、父の言うとおり病院へ行こうと思ったのです。
なぜでしょうか。
私の胸は、スーッと軽くなり、その日を境に、父と私の間には不思議に、今まで覚えたことのない、心に通じる何かができたのです。
十五日の夕食がすみ、送り火も焚き終わって、父は仏間で読経をしていました。
私は父の肩越しに
「明日行きます」
とためらいなく言いました。
お経をとめた父は、
「明日はだめだよ。十六日は地獄の釜の開く日だぞ。待ってくれ。急がなくてもいいんだ。お母さんに言ったのか・・・・・。ウン、母さんには俺から話すよ・・・・・待ってくれ」
仏さまに手を合わせたまま、声だけが小さく、父の背中から聞こえました。
父と私は、その朝、母に見送られて、家を出ました。
どの家も寝静まり、朝靄のかかった道を、近所の目を恐れ、足早に駅へ急ぎました。
朝一番の汽車でいかないと、父はその日のうちに家へ帰れないのです。
見送る母に一言二言ささやいて、背中をそっとなでた父を見ました。
父の心配がわかります。
家には小さな弟がいます。
私が病気になったので、母は心配して弟が飲む乳が出なくなっていました。
入院手続きがすんだら、早く、母のもとへ父を帰そうと思っていました。
上熊本駅から菊地電車にのりかえ、家並みをかすめ、曲がりくねって電車はすすみます。
とても暑い日で、日よけをかねた帽子の下の手ぬぐいが風にあおられ、私の病気の顔が人目につきました。
手ぬぐいは顔にできた赤い斑紋をかくすためのもので、父はしきりにめくれる手ぬぐいをなおしてくれました。
郊外に出て、電車がとまるたびに乗客は降りていき、車内はさびしくなります。
電車の揺れに誘われるように私の鼓動も、少しずつ大きくなり、不安がつのりました。
父の動作で病院が近いのを知りました。
ドラム缶をひきづるような音がして、電車はとまりました。
駅には黒石と表示してあり、私たちはおりました。
あたりを見回しても、病院らしい建物は見えません。
父が駅員に確かめたとき、電車は発車しました。
父は、私の顔や、ひきずる右足を人目につかないように、かばいながら駅を出ました。
昔は、熊本市内でも舗装した道は少なかったと思います。
線路に平行した道は、上り坂になり、上りきるとそこに御代志の停留所があると父が言いました。
私の左足は、気をつけなくとも土ぼこりをたてないように歩けるのですが、感覚のない右足は力がぬけていて、火山の土をはげしくたたき、並んで歩く父のズボンにはねるのです。
長い坂道を息をきらして上りつめ、道端の桜の木陰で汗をふきました。
ふと、目についた足跡のいびつさに、病気のただならぬものを感じたのも、そのときでした。
右を見ても左を見ても、人影のない道路、人家だってぽつんぽつんとしかない田舎をはじめて知りました。
目印の病院入り口の停留所は、道をへだてて向かいあった二軒の店の左側、壁にそうように枕木で組まれたホームでした。
道路をへだてて、道沿いに十軒も家があったでしょうか。
ほんとうにさびしい村はずれの場所でした。
深い山の中を思わせる、大きなヒノキの森は、日の光がはいってこず、ひんやりした冷たい風が吹いていました。片側の細い道に、人の歩いたあとや、車が走ったあとが残っていて、それが病院へつづく道でした。
守衛の受け付けで、入所手つづきをし、係りの案内で裏門へ行き、その門のじょうぶさに父も私もおどろき、ゾッとするものを感じました。
高さ二メートルあまりのコンクリートの塀に木製の厚い扉が観音開きにつくられ、合わせ目には赤くさびた大きな鉄の鍵がかけられていました。
「患者は、裏門から入るのです。付き添いの方は、かえるときは正門からお帰りください」
と説明しながら、最近、鍵をあけたことがないのか、しきりに鍵穴をのぞき、錠をあけ、扉をあけました。
事前に連絡してあったのか、それから顔に表情のない中年の男に引き継がれました。
道々、その男は、所内の説明をするのですが、緊張している私の耳には入りませんでした。
一時収容所の患者係りは自己紹介した後、
「お父さんは手続きはいりません。あとは私がついていますので、いつでもお帰りください。心配ないですよ」
明るい声で言ってくれました。
父は、
「死に別れじゃないし、いつでも会えるから・・・・母さんも気になるし、あさって母さんを連れてくるから、つらいだろうが我慢してくれ」
そう言い残し、面会室をかねた患者係や補導員の詰め所のくぐり戸をぬけ、後ろをふり向き、さようならと目で言い、頭を下げて行ったのです。
私は父の後を追い、泣きながら正門を出て、汽缶場(ボイラー)の水塔の横まで行き、後ろ姿を見送りました。
涙をふきながら収容所にかえる私を、髭をはやした巡視長が呼び止めました。
「お前はどこまで行ったのか。職員地帯に出ることはでけんぞ」
頭ごなしに注意をうけました。
「汽缶場の横まで父を送っていきました」
「反駁(反抗)するな。お前はこの正門を出ていったんだぞ。今日はよし」
と、たいへんな剣幕でしかるのです。
私が子どもで、西も東もわからない、入所したばかりのときだから、脅かしたのだと思います。
人間は第一印象が悪いと、本人は忘れていても、言われた当人は忘れないものです。
今もその人の顔も名前も、しっかり覚えています。
療養所には、職員がいる無菌地帯と私たちがいる有菌地帯があって、刑務所に似た高い塀に囲まれ、時間を置いて巡視の巡回があることを知りました。
療養所には療養所の、患者自治会(患者の人たち自身が、自分たちのことを考え、いろいろ決めたり、要求していく組織)には自治会の厳守事項があり、規約もあることを知りました。
私たちは、一度入所したからには、かってに外へ出ることはゆるされません。
塀や堀を越えて外へ出て、巡視にとがめられると、軽くて二、三日、塀の中の、さらに高い塀に囲まれた監禁室に収監されるのです。
病気の軽い者は、一時帰省の願いを出せば、日限を決められて帰れますが、期日内に帰らないと、またそこで叱られて、事情次第では監禁されます。
親の死を聞いても、許しのないものは帰れません。
思いあまって、監禁覚悟で逃亡し、帰ってくれば室長に連れられ、お詫びにいくのはもちろん、やはり監禁されます。
反対に、一日、二日外出してもうまく立ち回れば何食わぬ顔でいられる人もいました。
それにしても、監禁室には何百人の人が泣かされたことでしょう。
戦後、監禁室の塀は取り壊され、今でも面影を残した建物は残っています。
たくさんの見学者がきますが、監禁室と一部残っているコンクリートの塀を見て、どんな思いをされるでしょうか。
現在の療養所は、ずいぶん区画整理され、公園化され、見た目は明るい雰囲気になっています。
プライバシーがかなり守れるようになり、個々の生活が確立した今では、嫌な思いをした昔のことは思い出したくありません。
いいえ、話したくないというのが正直なところかもしれません。
今日は、最初に言いましたように夢屋のミヤさんから頼まれたので、やってきました。
人前で自分のことを話すのは生まれて初めてなんです。
何を話せばいいのかずいぶん迷いましたが、私の入所当時のことを思い出し、話してみました。
いよいよ最後ですが、みなさんにお願いがあります。
何が正しいか、ちゃんと自分の目と耳で確かめてほしいのです。
正しいとされていることも、実際にはまちがっていることもたくさんあります。
「らい予防法」がそうだったのですから。
そして、「この人はこうだ」といった決め付けや差別、蔑視をしないで、どうか友達と仲良くしてください。
今日は、ほんとうにありがとうございました。


最後に、予防法が廃止になった平成8年4月、熊本日日新聞の「生きる」という欄に掲載された関さんの文章をご紹介させていただきます。

念願と言うより、悲願であった「らい予防法」廃止が実現した。
平成8年4月1日は、私ども患者が人間回復をした記念の日である。
だが、私個人としては、喜びの奥に屈折した寂しさがあるのを隠せない。
予防法があって、長兄をはじめ、他の弟たちと会うことができない。
それぞれに家庭を持ち、子ども、孫ができているだろう。
心に残る兄弟の面影は別れたときのままである。
嫁たちの顔も名前も住所も知らない。
今日までひた隠しに隠してきて、予防法が廃止になったからといって、当方から兄弟に会う手立てはない。
マスコミの報道で見聞きしているとは思うが、これまた嫁たちに打ち明けるのもはばかられると察する。なんともやりきれない。
上手に言えば、優生保護とやらで、私は昭和25年以降、人間失格者である。
思い返せば、アメリカで発見され、戦後まもなく「らいの特効薬」の効果を目の前にし て、3人の医療学識者の「厚生委員会証言」が、私どもを苦境に追い込めてきたし、社会をも欺いた。
受けた被害は、私どもと社会は表裏一体であると考える。
今にして思えば、親にも兄弟にも「らい」という言葉は禁句であった。
それを許した私自身も後悔しているが、手遅れである。
幸いにして、予防法についてのマスコミ報道が、療養所の現実を伝え、差別や別紙をなくすよう啓発していただいたと感謝している。
やがて古希を迎える。
いまさら、波風は立てまい。偽名ではあるが、私は生きている。
生きていることを社会に感謝したい。

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