「共」に「生」きる。 in 阿蘇

柿食えば、的を外れて スーパーマン・・・

冥王星が惑星から外れることになり、今、そこをふるさとにするスーパーマンは、どこへ帰るのか、ちょっと心配ではありますが、そのスーパーマンで私には、思い出深いことがあります。
今度、またまたリメイクされ、映画となったスーパーマン。かつてはテレビの白黒時代から、画面にかじりついて見ていましたが、その後、高校になり、つまり1978年に、クリスト・ファー・リーブの主演で映像化されたとき、私は、な、なんと、その映画を奈良で見ていたのでした。
当時、県北の玉名高校というところに行っていた私は、弓道部に入っておりまして、またしてもな、な、な、なんとなのですが、どうしたはずみか、高三のとき県大会の団体で準優勝、そして個人では優勝をしてしまい、滋賀である全国高校総体へ出場していたのです。
弓道会場は奈良にあり、私は、奈良の旅館(名前はちょっと忘れました)
に一週間ほど、担当教師と二人で出かけ、せっせ、せっせと近鉄線だったかな?で、育英高校というところへ練習にでかけ、それでもって本戦に臨んだのでした。
まあ、県大会に関しては、これも長くなるのですが、やっぱり話ときますね。
あの日、私にはめずらしく、朝夕と猛練習したのがたたったのか、試合当日、学校に来たときから熱と吐き気に見舞われ、保健室に横になっていたのです。
「高校最後の大会なんだから、行ってみたら」
真顔な養護教諭の一言に、まあ、それもそうだなと、一人、後を追う形で、電車に乗り、熊本市の北岡公園へ向かったのでした。
試合会場についてからも、ほとんど茣蓙を敷いて寝ている状態で、自分の出番のときだけ、何とか這いずるように起き上がり、道場に立ちました。
個人戦は、まず一回戦は四射中、皆中(全部命中)。
おっ、体調のわりには出だしはいいなあと思っていった二回戦、四射中、今度は三射命中でありました。
ああ、これまでか、と思いきや、十人立てる射場に皆中者だけで八人ということで、残る二人分をめぐっての、三射当てた者での敗者復活戦があることになったのです。
で、早い話が私と、当時の八代工業(今は校名はどう変わったのか知りませんが)の生徒がその戦いで勝ち抜き、めでたく個人戦決勝へすすむことになったわけです。
そこからは、もうサバイバルです。
一射ごと、はずした者は立ち去っていく過酷な戦いになります。
次々と矢を射ながら、自分でも信じられぬほど、ホント、当たるは当たるは、一本もはずれない・・・。
それで気づいたときには二人になっていて、で、またまた、な、な、なんとなのですが、そこに残っていたのは敗者復活で勝ち残った、あの八代工業の生徒と私だったのです。
この体験は私に、その後の人生においても、決定的な何かを植え付けたように思います。
理屈ではない、「何事も最後まであきらめるな」という経験訓めいたものだけでも整理がつかない、不思議な体験です。
何かが二人にはそのとき、人為を超える力のようなものになってのりうつっていた、という感じかなあ。
で、またしても二人で競うことになったのですが、三射目だったかな? 相手の矢がぷすりと的を外れ、砂に突き刺さる音がしました。
すでに矢を射る体勢に入っていた私は、えっ、もしかしてこれが当たれば優勝?そんなことを考えていました。が、身体はスロービデオのように動きをとめません。やはり何者かに導かれるように、まったく力が入ることもなく、これまでどおりに、ごくごく自然と右手が弦から離れると、つぎに空中にわずかに弧を描いた矢は的を貫き、審査をしていた係りの先生の声がつづきました。
「ハイ、君が準優勝、君が優勝」
指差すその先にあるのは私の顔。
私はポカンとしていました。
まさしく無欲の勝利です。
さてさて、そこでようやくまた話は奈良へと戻ります。
私は担当のJ先生と、その夏休み、インターハイ会場の奈良へ出かけ、またまためずらしく練習したのが今度は逆に出たらしく、県大会とは違いどこか疲れていて、見事、予選敗退。
あの最後の矢が砂に刺さった音は今も忘れませんが・・・・
やっぱり、もう憑きものはとれていたという感じでした。
それにしても練習のときは絶好調だったのですよ。やっぱり、今から思えば、どこかで欲をだしてたんでしょうね。そんな人には勝利の女神は微笑まないみたいです。
予選落ちした私を励まそうということか、とりあえず、その日の夕食は、旅館の食事をせず、二人、奈良のレストランで食べました。それから先生が、映画でも見ようかと誘っていただいたのが、あのスーパーマンなのです。
たしか、J先生は映画研究会の顧問もしていたと記憶しています。
まあ、今度、新聞テレビでスーパーマンのリメイクの情報を知り、私自身すっかり忘れていたこのことを、それこそひょくっと思い出し、この『自然 and WALK』(しぜんとあるく)のコーナーの一発目に、書いてみようかと思いついた次第なのです。
ちなみに、そのJ先生、無類の旅好きで、試合後の個人的娯楽?だったのか、奈良から信州の方へ出かける計画を旅行会社の方とちゃっかり立てていて、一回戦で敗れた私は、奈良駅で分かれ、帰りは一人で電車を乗り継ぎ、熊本は荒尾の実家まで、帰ってきたという落ちまでこの話の顛末にはついています。(自分の性格から言ってその方が気は楽ではありましたが・・・)
なんとなく自然に、何かに後押しされるように歩いた、そんな私の中にある貴重な一ページの香りが今から振り返ればただよってくる、そんな夏の思い出です。


あ、そうそう。
あれから私は、友人が奈良で障害者といっしょに、なにやら「共生」の実践のようなことをやっているというのでたずね、三十代になってからは、解放文学賞なるものをいただき、三度たずねました。
それからそれから、高校のときは修学旅行でも行ってますから、インターハイも入れると六度、奈良の地を踏んだことになります。
まあ、何か因縁めいた場所というのは、人それぞれにあるものですね。

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