「共」に「生」きる。 in 阿蘇

連休に謎の大道芸師あらわる! すると阿蘇山が……。ナナフシの子どももびっくりしてました。


連休であちらこちらにぎやかです。そんなとき、ポンチョを着て祈っているのか歌っているのか、それともただ突っ立ってんのかよくわからない謎の大道芸師があらわれました。う、う~ん、とにかく謎です。降りてきたのはアンデスでなく、阿蘇往生岳の方向でした。
そこで僕が思ったのは、もしかするとこのおじさんは、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に出てくる『ツァラトゥストラの猿』さんと呼ばれる道化師なのかもしれないなってことでした。
マーラーの交響曲第三番第四楽章に、ホンモノさんの詩は歌われています。

おお、人間よ! 気をつけろ!
深い真夜中が何を語っているのか?
私は眠っていた。眠っていた。
深い夢から私は目覚めた。
この世界は深い。
昼が考えたよりも深い。
この世界の嘆きは深い。
喜びのほうが 深い悩みよりも深い。
嘆きが言う。『消えろ!』と。
だがすべての喜びが永遠をほしがっている。
深い、深い永遠をほしがっている!

でも、『ツァラトゥストラの猿』さんの方は、どんなに演説や口調を真似ても、裸の王様みたいに本人から見破られ嫌われてしまう運命なんです。
このおじさんの人生はどうだったんでしょうか。
たとえどうであれ、僕はちょっぴり思うのです。
もしかするとツァラトゥストラ本人が本物の猿で、このおじさんは正真正銘の人間だったのではなかったのかと。
そうなんです。
ニーチェは、このおじさんのような人を「猿」としてどこからともなく登場させてきて、僕たち人間の常識や考えを裏返して、合わせ鏡を覗かせてみたかったのではないんでしょうか、なんてね。
だからこの大道芸のおじさんの無言の芸を見ていると哀れなのは、本当はあなたたち人間の方なんだよって言われている気もどこかでしてこないでもないんです。
ああ、この連休はとっても素敵な芸を堪能させてもらったなあ。おじさんに感謝したいです。
だからこの文章も、最後にまたおじさんに会えることを願い、『ツァラトゥストラ』の次の一節で、終わりたいと思います。
『─ああ、遠くに行ってしまった優しい奇蹟であるお前たちと、俺とは、そばにいるように作られていた。恥ずかしがり屋の鳥とはちがい、お前たちは俺のところへ、そして俺の欲望のところへやってきた。─いや、信頼する者として、信頼する者のところへやってきたのだ!─』
げげっ、それってもしかすると今いる「ここ」、つまり「夢屋」ってこと。僕もその中の一人ってこと。ほんとかな…。
そんなことないよね、おじさん……。(嬉しいような……)
『お前のなかにはまだ、俺の青春の解放されなかったものが生きている。生きている青春としてお前は、お前が壊したこの黄色い墓のうえに、希望をもってすわっている』
ああ、おじさん、おじさんにとってはもう自分の墓場も希望も一緒なんだね。わかったよ、おじさん、もう十分だよ。それこそがおじさんの永劫回帰の始まりだってことが。
でも大道芸のおじさんは、やっぱり一言もしゃべらないまま、今度は突然『アイアイ』の曲に合わせるような身振り手振りで山へと帰っていかれましたとさ。
引用と参考文献
『ツァラトゥストラ(上下)』
フリードリッヒ・ニーチェ著 光文社古典新訳文庫 丘沢静也訳

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