「共」に「生」きる。 in 阿蘇

12/14前川喜平氏(現代教育行政研究会代表、元文部科学事務次官)の講演会へ行ってきました。

「九条の会たけた」と「竹田地区労働センター」の共催で、竹田市総合文化ホールでありました。講演内容としましては、いわゆる「加計、森友問題」についても、かなり詳細にご自身の記憶と体験に基づく考えや認識を話されましたが、私自身、一番印象に残ったのは、現在、地道に活動されている自主夜間中学での識字ボランティアでの体験談でした。様々な事情で義務教育を充分に受けることができなかった方々へ寄り添い、一字一字を丹念に一緒になって取り戻す作業は、必然として、果たしてこの国が、これまで憲法で定められてきた、すべての国民に教育を受ける機会を実現してきたのかという疑問へと繋がっていきます。
そこで氏は、憲法26条第1項で、すべての国民に「教育を受ける権利」があることを規定していながら、第2項ではその義務主体を「すべての国民」としていることに問題があるのではとおっしゃいます。つまり「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」のは、「国民」ではなく、あくまで「国」でなければいけないのではないかということです。
すなわちこの26条は、こう書き換えられなければならないと。
『国はすべての人に無償普通教育を受ける義務を負う』
この一文によって、例えば先般、国会で大揉めした入国管理法改正の重要課題の一つである外国人労働者受け入れの際の「基礎的教育」の問題、つまり「もの」でなく「人」として当然受け入れねばならないはずの今後次々と入国されてくるであろう外国の方々に対して、「教育」の対象に入っていただけることになるでしょうし、国は、文字通り義務として責任を果たさなければならないということです。それにより氏が訴えられている外国人に対しての「無償での日本語を学ぶ機会」の保障と、そのことによって生まれる互いの「民族の文化的アイデンティティーを大切にする」良好な関係を築く礎が出来上がりますし、今後必須のことではないか、ということでした。
『多文化多民族共生社会』の実現こそ、これからの日本の喫緊の課題であるともおっしゃっていました。
思うにそれらの考えは、障がい者との「共生」を柱に健常者側の立場として取り組んできた私としても、いたく自身の実践と重なるところがあり、大いに参考と勉強になった次第です。
最後に教科外活動(領域)から教科になった「道徳」についても教科書の中からいくつかの教材文を事例として出され、『個人の尊厳』と『地球市民としての意志』の視点の欠如を指摘されました。例えば「お辞儀の仕方」一つとっても、形ばかりを重視するあまり、肝心の「心」の部分=その行為が実際に内発的なものに支えられているかどうかといった部分がそもそも量れないため、推し進めれば進めるほどますます個々人の内面をないがしろにした体裁だけの、その場限りのものになっていく危険性があると心配されていました。
これも障がい者との活動を主にやってきた身としては、そういったある種の「形」重視の価値観になっていった場合、身体的動作や表現が厳しい重度の身体障がい者や、じっとしていることがどちらかというと苦手な知的障がい者の場合、じわりじわりと不寛容で排除されていく空気感が社会に醸成されていきはしないかと危惧を抱いた次第です。
予定時間を上回っての熱のこもった講演後、外灯のみの薄暗い駐車場でお声を掛けると、お疲れにもかかわらず何訝ることなく気軽に立ち止まって下さり、わざわざ室内の照明の届く明るい場所まで移動して写真にも快く入って撮らせて下さいました。こちらが阿蘇から来たことを言うと爽やかな笑顔で労い、「夢屋だより」(冬号)も受け取って下さった次第です。感謝の言いようもありません。心よりお礼申し上げたいと思います。前川さん、本当にありがとうございました。そして共催されました「九条の会たけた」と「竹田地区労働センター」関係者の皆様、お疲れさまでした。

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