「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『夢屋だより』2018春号(110号)の中からの文章です。

いよいよ春本番、新年度のご挨拶をさせていただきます。
作業所「夢屋」代表 宮本 誠一

新年度が始まり、早くも一月が過ぎようとしていますが皆様、いかがお過ごしでしょうか。あの熊本地震から二年、今も住居やお仕事、生活の面などでご苦労されている方が多くいらっしゃるかと思います。改めて心よりお見舞い申し上げたいと思います。夢屋からも悲しいお知らせがあります。前号で百寿の祝いをお知らせしました竹原幸範さんが、誕生日から20日過ぎた翌2月27日に老衰のためお亡くなりになりました。通夜、葬儀には多くの方々に参列していただき、御弔慰、御香志を賜りました。この場をお借りして深く御礼申し上げたいと思います。今回、P4~P8に私やメンバーたちからの追悼文をお載せさせていただいております。幸範さんの人柄や御恩は到底言葉で言い尽くすことなどできないのですが、皆、精一杯思いを込め書いてくれました。どうかお目を通していただき故人を偲んでいただけましたら幸いです。
また性的少数者(LGBT)について、このテーマと長く取り組んでおられる阿蘇ひまわり基金法律事務所の弁護士、森あい様から寄稿(P3)をしていただきました。性的少数者(LGBT)に関しましては熊本市内でも今月1日、「レインボーパレードくまもと2018」と銘打って、同性愛や性同一性障害の当事者や理念に共感する方々が虹色の旗や腕章を付けパレードされたり、全国ではカップルを事実婚として公的認定する「パートナーシップ宣誓制度」を導入する自治体も誕生しています。私自身は紅白歌合戦にも出場された中村中(あたる)さんの『友達の詩』を聞いた時、本来誰の侵害も受けるはずのない性やその指向性に対する不合理な差別の実態に部落差別を始め様々な差別と通じるものを感じ、考えさせられるようになりました。このたびご多忙の中、原稿依頼を快諾して下さった森様には心より感謝申し上げる次第です。
では4月から6月までの行事日程(予定含む)をご報告させていただきたいと思います。
4/2 夢屋24年目のスタート。
4/19~22 森の家『野菜ty(のなてぃー)』をご利用。(福岡から2名)
4/24『夢屋だより』新年度号発行。
5/9 阿蘇市人権・同和教育推進協議会総会(サンクラウン大阿蘇にて。竹原出席)
5/31竹下舞さんの誕生日。
報道でよく、遮断された豊肥線周辺の実態や赤水のトンネルの掘進状況など目にする中、3/17の熊日朝刊で北外輪山の麓、的石地区の被災家屋が土砂災害防止法に基づく同特別警戒区域内のため、住宅の新・増築に規制がかかり、特に2メートル近い擁壁建造がネックで新たな生活に踏み出せないことを知りました。紙面に登場されていた山本直樹区長とは阿蘇YMCAであった関西の学生たちの学習会でお会いし、そのときも気さくに言葉を交わして下さいましたが、大変な難問に直面されていることを知り、己の無知さに恥じ入った次第です。まだまだ身近には多くの被災状況が山積しており、何の力にもなりませんが、せめて関心を持ち続けることが唯一できることかと肝に銘じている今日この頃です。最後になりましたが、この春から夢屋もいよいよ24年目を迎えることになりました。これまで温かくご支援下さったお客様、市民や行政、地域の皆様へ改めて御礼申し上げ、新年度初めのご挨拶とさせていただきたいと思います。

(寄稿文)すでにともに生きている人たちの話
森あい ( 「くまにじ」https://kumaniji.jimdo.com/)

「自分が同性愛者であることを認識した日から、この国でも同性婚ができたとするなら、また違った生き方をしていたかもしれない。そんな人は沢山いると思います」 (http://douseikon.net/?p=555) 熊本に住む、同性のパートナーがいる男性の言葉です。 日本では、同性どうしのパートナーシップに法的な保障はありません。 同性のパートナーを殺された男性が、一昨年、犯罪被害者給付金を申請しましたが、認められませんでした(https://mainichi.jp/articles/20171228/k00/00m/040/126000c)。男性は、約20年間、パートナーと同居していました。パートナーの給料は男性の口座に入金され、家事や家計管理は男性が担 い、男性とパートナーの生活は一体でした。パートナーを失ったことで、精神的な点はもちろん、 経済的にも大きな苦しみがあったはずです。「被害者と一緒に暮らした遺族を支える」という制 度の目的からすれば、同性であっても認められるべきです。「男女だって結婚していなければダ メだろう」と考えられるかもしれませんが、男女であれば内縁関係でも支給されることになって います。
ことは法的保障だけではありません。 「私と彼女は仲の良い友達でしかない、一緒に生活したとしても同居人でしかないということで す」 (http://douseikon.net/?p=154) 熊本に住む、同性のパートナーがいる女性の言葉です。 関係が認められていないということは、祝福の外に置かれることを意味します。大切な人との 生活が無視され、例えば、仲の良い友だちであったり、同居人とされてしまったりします。未来 の描き方が、男女でパートナーシップを築く人と同じではありません。
また、生まれた時に割り当てられたのと違う性別で生きている人たちもいます。日本でも、性 同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律という法律により、法律上男性(女性)とされた人が女性(男性)に性別の取扱を変更できるようになりました。しかし、条件が厳しく、変更 できている人はまだまだ少ない状況です。見た目の性別と法律上の性別が一致しないと、例えば、 投票に言った時に怪しまれるなど、困ることがたくさんあります。
こういった話は、海外の話、日本でも東京や大阪の話、九州でも福岡の話、熊本でも市内の話、 そう思われるかもしれません。しかし、そんなことはありません。どんな小さな町や村にも、同 性を愛する人もいますし、生まれた時に割り当てられたのと違う性別で生きることを望む人はい ます。しかし、残念ながら、自分の生きたいように生きられず、出て行くことを選ばざるをえないことは珍しくありません。
熊本が、法律上の性別が男でも女でも、自分の性別を何と思っていても、また、好きになる人 の性別が何でも、1人ひとりが大切にされ、その人らしく生きられる場所になることを願っています。もしこれまでにこういったことを考えたことがなかったという方がいらっしゃれば、すで にともに生きている人たちの話としてこの文章を留めていただければと存じます。
※LGBTとは- 性的少数者を限定的に指す言葉。レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、  バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(出生時に診断された性と、自認する性の不一致)の頭文字をとった総称であり、他の性的少数者は含まない。
竹原幸範先生、本当にありがとうございました。夢屋の皆からの追悼文です。

~心の師、幸範先生へ。一番弟子と勝手に思っている宮本誠一より~

先生とは、13年ほど前から畑仕事のお手伝いで懇意にしていただくようになりました。教えていただいたことは数限りません。耕運機の動かし方から畝の作り方、苗の植え方など丁寧に実演して下さいました。当時80代後半でありながらふらつくことなく耕運機を自在に操られ、その体力に驚かされました。いつも握手して帰っていましたが、軽く握られただけでも温かみとともに伝わるその力強さは並ではなく、「いててて―、とても百歳とは思えませ~ん」「そうかあ、うれしいねえ」ベッドに伏されてからもニンマリされておられました。
自宅にいるときからやっていた言葉のトレーニングや朗読、首などのストレッチのお手伝いは入院後も、ほぼ毎日続けさせていただきました。誤嚥防止の「パタカラ」の発声に始まり、首回しや深呼吸、そして食後は師範学校時代の学友、ご両親、ご兄弟の名前を、こちらが写真などをお見せしながら答えていく形です。学友は10名。私が姓を言うと先生が名前を言われます。「田辺(恭一)、大平(五雄)、石田(亮平)…」、最後の締めが「宮本」「誠一」です。「これは僕の名前です。一番弟子です」と言えば「よろしく」と満面の笑顔になられます。
これまで二度、一度目は7年前、低血糖で地域医療センターへ、そして熊本地震の一週間前、胆石性膵炎で日赤へ、救急車に同伴し、どちらも祈る気持ちでしたが、そのたびに信じられぬ回復力で復活されてこられました。意識が戻られ、事情を説明すると持ち前の大らかさで「ここはどこかあ」「おお、そうかあ」と、まるで他人事のように暢気に答えられ、こちらが拍子抜けしてしまうほどで、周囲の緊張感をいっぺんに和ませてしまう大らかさをお持ちでした。
危篤になられる前日、2月24日のことです。ご家族の事情で私一人で夕食の介助に行くこととなりました。いつもは病室で食事をするのですが、着いた時、既に病院側の判断で車椅子に乗っておられ、風景のよく見える部屋で食べることになりました。窓からは夕暮れ迫る外輪山を眺めることができます。その時は少々体調を心配しながらの介助や話し相手でしたが、今振り返れば、最後に阿蘇の風景をお見せできたことはよかったのかなあと思っています。
また夢屋にとっても先生はとても大きな存在でした。いつもさらさらと達筆な草書で入所式で手渡すメッセージカードの文面を書いては、一人一人励ましながら手渡して下さいました。毎日の散歩途中でのメンバーとの握手、デイケアに行かれるようになってからの朝からの皆でのお見送り、花見、ハイキング等々。中でも忘年会は毎年欠かさず参加して下さり、『阿蘇の恋歌』や『椰子の実』をテナーに近い声で披露して下さいました。いつも健常者や障害者の分け隔てなく対等に話され、不可解なことは率直に質問され、目的や趣旨などで合意されれば協力を惜しまないそんな面をお持ちでした。それらは意識されているわけではなく、自然に先生ご本人の人間性に備わっておられるようでした。そのようなことからもとても稀なリベラルな気質の持ち主で、もしかすると大正デモクラシーの最後の世代だったのではと今では思っています。
師、幸範先生、私はあなたと出会えて本当に幸せでした。この世で受けた御恩は何ものにも代えがたく感謝のしようもありません。どうかゆっくりあちらでも大好きな焼酎を嗜まれ、いずれ私も参りましたら、ぜひご相伴のほどよろしくお願い致します。合掌。

『偉大な人との出会いと別れ』
中島 地利世
今号は、今年の2月6日に百寿を迎えられ、月も変わらない3週間後の27日に、残念ながらお亡くなりになられた竹原幸範さんとの思い出を書かせて頂きます。
幸範さんとの出会いの最初は、私が「えびすぱーな」でレジの仕事をしていた時の事です。高齢の方にしては(失礼)スラッとスタイルがしっかりされていて、お洒落で話し方もとても柔らかい人がカートを押しながら私の台に入って来られました。来られるたびに必ず、去り際に「はい、頑張って!」とか「お疲れさん!」など、いつも笑顔で励まして下さっていました。それだけなのですが、何度か会っているうちに「でも、なんかどこかでも見なれた雰囲気の人だな~」と思っていたら、それもそのはず!何と、その人は【夢屋】の副代表、竹原ナホ子さんのお父様でした。たまたま、ナホ子さんが【夢屋】(旧夢屋の時)にいた時、幸範さんも用事で来られて「今の人、父です」と教えて貰って、そうだったんだ!と、すごく納得した気持ちでした。その後またレジに来られた時、思い切って自分の方から話しかけてみました。「竹原ナホ子さんのお父様だそうですね」と聞くと、目を丸くされて「お~、よう知っとんな!ナホ子は私の娘だ!私は竹原幸範だ!」とご丁寧に年齢まで自己紹介して下さいました。私の事をナホ子さんの生徒さんだと誤解されていたので「【夢屋】でお世話になっている者です」と私も自己紹介すると、いつもより少しだけ長くお喋りして下さいました。その日帰られた後に、今まで話した事もなかった他の従業員の人が近づいて来たので「ヤバッ、怒られる…」と思っていたら、「あんた、何で竹原さん知ってるの!?」と驚かれて、他の人も「あの人、阿蘇では有名だよ!」と詳しくは教えて貰えませんでしたが、凄い人気で、おかげでその後の私への待遇までちょっと変わってきました。(笑)その後、その幸範さんのご厚意でご自宅のそばに【夢屋】が移転して、ますますお話できる機会が増えて「お爺ちゃん」と呼ぶようになった私を本当の孫のように優しく接して下さって、【夢屋】が終わって帰り際、お爺ちゃんが書斎に使われていた窓側でお別れの握手をして貰い「今日の出来事」を話すのが毎日の日課になっていきました。たまにミスして落ち込んでいる時「大丈夫!今日がダメなら明日がんばりゃいい!明日がダメん時は明後日!ハッハッハッ!」『終生 前向き』という言葉が好きだと言っていたお爺ちゃんらしく、笑い飛ばしてくれました。お誕生日会や季節ごとの(お花見、つつじ祭り、七夕祭り、紅葉見物、古閑の滝の氷山)年末には忘年会…など、書ききれない程の行事も一緒に参加させて頂いて、その度に自然の豆知識などや「私が教員の頃はな…」と、昔話をたくさん嬉しそうに話してくれる…時々、間違って、ナホ子さんに「お父さん…それは違うよ!」とツッコミが入ると、私の顔を見て「ペロッ!」と舌をだし照れ笑いをする…そんな時間が本当に癒されて好きでした。ほとんど病院で過ごすようになられて会えなくなりましたが、奇跡的に百寿を迎えられた時も直接ではないにしてもお祝い出来て、私まで達成感いっぱいな気持ちになりました。その後、亡くなられる1週間前「阿蘇医療センター」から「やまなみ病院」に転院される時、私も荷物運びに一緒に連れて行って貰えて、数年ぶりに会えた時はすっかり痩せられて別人のようでした。「だいぶ会ってなかったから忘れられているだろうな…」と思っていましたが、宮本さんが耳元で「ちとせさんですよ!」と言ってくれた時、声はでなくても「おおっ!」と口の動きで反応してくれたので、本当に嬉しかったです。その次の週、火曜日の夕方に宮本さんから電話があった瞬間、嫌な予感しかしなかったのですが、やっぱり訃報の連絡でした。その次の日の水曜日がお通夜と聞いてなんとか行きたかったのですが、母の調子がとても悪くて行けず、次の日の葬儀に参列させて頂きました。これまで何度も頑張って元気に戻ってきてくれていたので、会場につくまで実感が持てなかったのですが、受付をすませ、部屋の入り口からお花に囲まれたお爺ちゃんの写真が見えたとたん、一歩も中に入る事が出来ずにいると、スタッフの人が「大丈夫ですか…」と心配してくれて、席まで案内してくれました。座ると動画がながされていて、ちょうど私達メンバーと握手してもらっているシーンで、我慢できず涙がこみ上げてきました。こうやって、大切な場面を一つ一つ記録に残してくれていた宮本さんや、たくさんの思い出を作ってくれたお爺ちゃん、ナホ子さんに本当に感謝しています。
これからも、お爺ちゃんが手を差し伸べて用意して下さったこの場所とご近所の方々や支援して下さっている皆さまとのご縁を大切に、【夢屋】から天国まで笑い声が届くように、みんなで仲良く元気に頑張っていきます。それがお爺ちゃんの願いでもあると思います。
最後に、心からご冥福をお祈りいたします。

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