「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『夢屋だより』夏号(101号)からの文章です。(6/14発行)

その後、いかがお過ごしですか。熊本、そして阿蘇の復興を祈りつつ、ご挨拶申し上げます。
夢屋代表 宮本 誠一

今回、まだ前号から間がありませんが、さっそく夏号として出させていただくことにしました。あの4月14日、16日のことをメンバー本人に書いてもらったり、ご家族にお聞きし載せさせていただきました。全体を読んで痛感したのは、自衛隊の皆さんの活躍もさることながら、まずは普段から培っている「地域力」の大きさです。近隣同士での声の掛け合いや助け合いがどれほど、このような危機的状態のとき命や生活を救うかということでした。
そこで私ですが、事務所も兼ねる夢屋の二階で当日休んでおりまして、ドーンという響きとともに跳ね起きたまではよかったのですが、階段を簡単に下りれると思ったのが最大の甘さでした。まったく規模が違いました。足をかけた瞬間にこれまで体験したこともない激震が始まり、まるでトランポリンのように跳ね飛ばされ滑り落ちてしまいました。腰や臀部を強打し、足の指の骨にも罅が入ったと思われます。手の指先も切り、後で部屋の中を見たところ、あちこちに血痕がついていました。そんな這う這うの体でテーブルの下へ避難、棚が倒れたりガラス類の砕ける響きの中で、どうにか外へ出たときには遠く阿蘇山からゴオ~~ッという恐ろしい地鳴りがし、暗闇なだけに想像は膨らみに膨らみ、これはとにかく大変なことが始まったぞ(「起こった」というより、これから何かもっと大きな事態になるのでは)という恐怖で身が縮み上がりました。
つまり、その瞬間には「何もできなかった」それが最初の私の感想です。日ごろから神経質で、ちょっとした音や揺れにも敏感なため身のこなしにもそこそこ自信があったのですが、前夜の地震で疲れ寝入っていたとは言え、己の身体能力を遥かに凌駕するものの前に、成す術ありませんでした。その後は、私もご近所の皆さんのお力と励ましで何とか無事に過ごし、感謝は尽きません。そんな中、固定電話や携帯も不通状態が続き、メンバー全員の安否確認ができたのが翌17日の夜で、18日に阿蘇市福祉課へ現在状況をお知らせすることができた次第です。
そこで改めて考えさせられたことは、当前ですが災害時には自分も被災者になるということです。道路の破損状況もわからぬ中、(ガソリンもいつもは早めに入れるのですが、全くの準備不足でほとんどなく)どのような動きが取れるのか。福祉作業所を運営する者として今後の大きな課題と反省であり、小嶋康揮さんのお母さんのおっしゃった「行政は、より細かな対応を」という言葉は「委託」を受ける側として重く受けとめねばと思っています。
結局、見えてきたことは、「転ばぬ先の杖」「備えあれば憂いなし」。甲斐誠さんのようにいざというときのために自分の「白杖」をいつも手に取れる場所にしっかりと準備し、常日頃から、万端とまで行かなくても、ある程度の物理的備えと心構えをしておくこと、それに尽きるのではないか、そう思います。二度と起きてほしくないと願いつつも、さあ、来るなら来い、今度は前より大丈夫だぞという、「経験」を生かしての対応力を磨いておくことも大切かと思った次第です。でもやっぱり二度と来てほしくない、それが本音です。祈るより他ない無力な私ですが、夢屋のメンバーやスタッフ、地域、そして阿蘇の皆様とご一緒に一歩ずつ前へと進ませていただければありがたい限りです。ともに力を合わせ、これからもがまだしてまいりましょう。

熊本地震の体験より

~地域の方々が助けて下さった二日間~
下村 津代
14日の前震のときは食事を終え、片付けも終わり、トイレに入っているときで、「ギャーッ、地震!!」と声を出して驚きました。息子とも「すごかったねえ」と話しましたが、幸い余震などもなく、翌日は少し落ち着きましたので、揺れが酷かった熊本市内の何人かの知人に電話を入れました。レンジや小物などが落ちて来たなどの声を聞く中、ある友人は食品関係のお店で働いていて、ちょうどフライパンの油で揚げものをしていたところだったらしく、それが揺れでこぼれ、逃げようとしたところふくらはぎを焼けどしたとのことでした。そうして15日の夜は、一応用心のため、箪笥のある方からは布団をずらして休みました。
 そして16日未明の本震がやってきました。あまりの凄まじい揺れと携帯からの非常警報を知らせるけたたましいブザー、それと着信が鳴りまくり、息子が隣りの部屋から携帯で連絡していたことは後で知りましたが、そのときはまさに私自身、パニック状態で何がなにやらわからなく、体の方も揺れで立ち上がることができませんでした。「地震だよ、地震!!」と息子の叫び声がじかに聞き取れましたが、こちらも「わかってるけど、起きれない」と返すのが精いっぱいでした。それでもとにかく、揺れが少し治まった後、急いで着替えて息子とウルマと一緒に必要な最小限の荷物をもって車に避難しました。ところがその日は意外に寒く、息子もガソリンを充分入れていなかったため、お隣りの方が自分の軽トラから抜いた燃料を下さり、どうにか夜が明けるまで暖房を入れて過ごしました。ウルマも余震が来るたびに怖がって、体を小さくしていました。
 翌朝、やはり避難所に行った方がいいかなと息子とも話し合い、一の宮小学校の体育館に行きましたが、あまりの人や車の多さに、やはりここだとウルマもいることだし迷惑をかけるだろうと自宅へ引き返しました。相変わらずの余震におびえながら時を過ごしましたが、またしても近所の方が用意されていた非常食を分けてくださったり、ポータブルのガスコンロを貸して下さるなどして、それで頂戴した水を沸かしカップ麺をつくり空腹を凌ぎました。自宅の太陽光蓄電の電気があったのを思い出し、ご飯を炊いて食べたときは、おかずは何もなかったですが本当においしくてうれしかったです。
 息子は仕事がありますし、一人になったときはウルマがいるとはいえ心細く、これ以上余震がないよう、ただただ祈るばかりでした。
あれから一月が過ぎた今も、二階の自分の部屋では休めませんし、玄関近くに荷物を置き、いつでもすぐに逃げられるようにしています。1975年のときの阿蘇北部地震も、私自身は熊本市内にいましたが豊肥線が復旧するのに数日かかりなかなか帰宅できず、ようやく手野の実家へ戻ったときは被災のたため、自衛隊が田圃につくったテントで過ごしたのを思い出します。これから南海トラフのことも心配ですし、気が休まらない日が続きますが、とにかく夜が明けたとき、ああ、今日はなにもなかったよかったなあ、と一日一日を大事に生きていこうと思っています。(これは、5/25日にお聞きした内容を、ご本人確認の上でまとめさせていただきました)

~人生初で最大の恐怖体験~
中島 地利世
前震がきた4月14日の夜、私は寝る前の趣味の1つ、大好きな音楽を聴いていました。
そこに揺れを感じて「あれっ?」と天井を見上げると蛍光灯が揺れているので携帯を見ると「震度5弱」と出て、初めて見る数値に不安でオロオロしていました。地元の親戚や、宮本さんがすぐ安否確認の電話をかけて来て下さって、しばらく話していると落ち着く事ができました。翌朝のニュースで、益城町の被害の大きさにまたショックをうけ、阿蘇は大丈夫かな…と不安が高まる中、「夢屋」は通常通りの活動で、皆の顔を見るとホッとしました。配達先々で、状況を聞いて心配して下さるお客様や、「まだまだ大きいのがくるかもしれんけん」と注意して下さるお声を聞いて、「明日、色々と準備しとこう」と思いました。
その夜はなかなか寝付けず、夜0時位からやっと寝付けたかと思ったらすぐ、16日深夜の1時25分、まさか悪夢の瞬間がこんなにもすぐ来るとは思わず…心の準備も身の回りの準備もできず、ただ布団の上で這いつくばって、揺れが収まるのを待つしかできませんでした。一時的に収まった時、隣地区(宮地小のそば)に住む母から安否確認の電話があり、そこの家も不安定なので、また別の場所で兄と一番下の妹が住んでいる家に皆で避難する事にしました。朝になって、まず一番最初に電気と水が使えるか確認したら、当たり前ですがどちらもダメでした。その後、自宅の被害を確認する為に30~40分位の距離を歩いて帰りました。途中、阿蘇神社のそばで人がたくさん集まっていたので「何だろう?」と覗いてみると、桜門や外灯などが、あちこち痛々しいほどに崩れてしまっていました。その後も家までの道路沿い、お店や家のガラスや瓦の散らばりを見て涙が溢れてきました。幸い自宅は風呂場のドアや食器棚などが倒れ掛かってきていた位でした。余震が怖いので簡単に片づけて、最低限必要なものだけを準備して兄の家に戻り車内で寝泊まりしていました。自衛隊の方が、毎日、大変な中お野菜や果物等を持って視回りに来て下さって、水が使用できないのでお風呂までご用意して下さり、本当に有難かったです。
4月23日に、宮本さんが16日の本震の時に負傷された足を引きずりながら、わざわざ様子を見に来て下さって、正直ホッとして泣きそうになりました。
水道水が出だしても、いつまでも濁っているので、飲む為の水は湧水を汲みに、町内の止まって無い場所を探し歩いたり、役犬原まで行って運んできました。店も閉まっていて、いよいよ食べ物がなくなり避難所に行こうかと話していた時、5月2日、宮本さんが「支援物資を戴いたから…」とたくさんのお水、お米、お菓子、衛生品を私の家にも届けて下さったおかげで、何とか乗り切る事ができました。食べ物や水以外での不安は、母の薬でした。ただでさえ普段から数が少ない薬なので、交通機関などの混乱から手に入りにくくなり、間に合わせる事ができるのか、心配で仕方ありませんでしたが、何とか小分けでご用意して貰えて、母も落ち着く事ができました。まだまだ「もう大丈夫」という気持ちには、とてもなれませんが、奇跡的に助かっているこの命を大事に、周囲の人に心から感謝しながら頑張っていかなければと強く思いました。

 ~思わぬ我が子の姿に勇気づけられた~
甲斐誠さんのお母さん
14日は、揺れはしましたがそれほどではなく、誠に声をかけると棚からCDが落ちたということでそれを拾っていました。そして16日です。まず下の部屋の家具や電子レンジなどが次々と落ち、あっという間に足の踏み場もない状態になりました。すぐそばにいる次男家族が駆けつけてくれ、いつもお世話になっているお隣の方も「家の中にいたら危ないから、すぐ外に出た方がいい」と声をかけて下さり、次男が二階に上がりながら伝えるとすぐに誠は降りてきました。するとその手には普段使わない白杖がしっかり握られていたのです。いつもドアの右側に置いてあるのは知っていましたが、本人もさすがに非常事態と思ったのでしょう、咄嗟に自分から握ってきちんとした足取りで車へ乗り込み、一の宮小学校の駐車場へ避難しました。その後、体育館のトイレへ行くときも弟がついていってくれましたが、白杖はちゃんと持ち続けていました。その夜が明け自宅へ帰り、今度は数日、自宅の庭で車中泊してから、本人も自分の部屋へ戻りたいということで、怖くはありましたが、いつもの形になりました。
     
~咄嗟の判断の連続だったあの日~ 
 井上拓郎さんのお父さん
14日の前震もかなりひどく、コップ類が落ちたりし、車中泊しました。そして16日の本震ですが、突然ドーンッときて飛び起き、拓郎の部屋へ行くと扉の方へ既に本棚が倒れていましたので、それを持ち上げ「すぐに出ろ」と叫び、外へ出しました。正直、どんな行動をとったのか今でも記憶が曖昧でよく覚えていません。とにかく外へ出たときは着の身着のままでしたから、妻と拓郎を車に乗せ、私が二度、三度と少しずつ必要なものを取りに行きました。よく足などガラスで切らなかったなあと、今振り返るとゾッとします。
何とか身なりが整うと、早速、今度は近所の人たちと付近の見回りに行きました。家の中に取り残されている人がいないか声をかけて見て回り、途中、地面の亀裂に足がはまってしまい、怪我をしましたが、皆さんの協力で大事に至らず助かりました。ボイラーなども吹っ飛び、電気、ガス、水道ももちろん不通でライフラインのすべてが駄目になっていましたから、とりあえず「そよ風パーク」さんが普段通り宿泊できるとのことで、翌日は近所の方五家族で一泊し、その後は服掛松キャンプ場で週末まで過ごしてから、ようやく自宅へ戻ってきました。拓郎はちょっと風邪をひきましたが、大きな怪我や精神的なダメージもさほどなくホッとしています。
    
~行政は、より細かな対応を~    
小嶋康揮さんのお母さん
14日は、薬を使っているせいもあってか目を覚まさず、余震もなかったですし、それがかえって本人も怖がることもなく良かったと思います。16日はあまりの揺れに驚き、私の方から起こし、眠ろうとするのを「起きてなさい」と言ってずっと抱きしめていました。ただそれでは現実的に、いざとなったらどこかへ避難しようと思っていたかと言えば、やはり自傷行為など予想できますし、何とかこのまま住宅で過ごせるよう地震が治まることを願っていました。宮本さんからは前震、本震後はいつも電話があり、ありがたかったです。三日目に自衛隊の方が付近の巡回を兼ね様子を見に来られ、何か困っていること、必要なものはないか尋ねられましたので、食べ物のことを言うと翌日、カップ麺などを持って来て下さいました。水害も含め、災害時に思うですが、行政の方ではうちのような重度の障がい者の把握は既に充分されていると思いますので、それに応じた細かな対応をより迅速にやっていただければありがたいです。
       

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