「共」に「生」きる。 in 阿蘇

あれこれ考えさせられる日々です。

数年ぶりに、ある障害児の保護者と二時間ほど話しました。子どもさんとは夢屋を始めて交流学習で知り合いました。地元の高校に進学し、その後どうしているか尋ねると既に退学し、今は電車やバスで二時間ほどかかる単位制の高校へ通っているそうです。原因はいじめです。いじめの実態が見えてきたとき、学校へ訴えても、教師の見ていないとろでのことだし、本人がコミュニケーションが苦手でうまく説明できないことなどもあって、改善はされなかったようです。卒業うんぬんより、精神的、肉体的にこれ以上の苦痛が加わることを案じた保護者は、本人と話し合った末に退学を決意され、今の状況になったとのことでした。

軽い発達障がいがある子なのですが、この状況に「やっぱり普通高校はむりだったんじゃないのか」とか「いじめられるのは、本人にも原因がある」等の言葉が聞こえてき、相当まいっておられました。

敢えて誤解を恐れず書かせて頂けば、考えようによっては彼ら(障がい児・者)とその家族は、生まれてから多くの日々が大小の「津波」に浸食されています。健常児も同じだ、とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、義務教育入学の際にも、今もって障がいの度合いによっては就学時健診で枠外に置かれるケースは現存していますし、入学してからも、保護者の思いをよそに様々な壁がたちはだかってき、担任を介しての学校側との交渉は尽きませんし、ときによっては希望する学級に籍を置き続けることも困難な状況も生まれてきたりもします。その不安は就学後さらに現実味を帯びてきて、就労や年金の問題などで「生活」を脅かしてき、「選択」の幅の狭さは健常者の置かれた状況とは明らかに異なります。

作業所をやってきて17年、保護者の絞り出すような声と涙を見るたびに、これらの厚い壁と現実をまざまざと見せられつつ、無力な自分ではありますが「何を考え運営していけばいいのか」新たなテーマを突き付けられている気がする毎日です。

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